縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第58号 平成18年11月18日
生物から見た鳩ヶ谷の農業
藤波不二雄
二〇〇五年九月二十四日、兵庫県で五羽のコウノトリが自然の中へ放鳥されました。一九七一年に日本産で国の特別天然記念物であるコウノトリは絶滅しましたが、一九八九年に飼育下でロシア産のペアにより初めて繁殖に成功しました。以後は順調に飼育数が増加し、今回の野生復帰となりましたがコウノトリ放鳥に至るまでには、この地域で自然が大事か、人間が大事かと言う論争があったと聞いています。今ではコウノトリの野生化事業に向けて市民の理解も深まり、水田や畑での農薬や除草剤の散布などを極力さけ、コウノトリが生息できるような環境作りが進められています。コウノトリのような大型の生物が野生で生きていくためには、多くの生物を含む多様性のある自然環境が必要です。
鳩ヶ谷市でも二〇年ほど前までは、荒川低地と呼ばれる八幡木、三ツ和、里地区などに水田が広がっていました。そして、その水田への引水は主として見沼代用水より取水していました。
見沼代用水は享保十三年(一七二八年)に井沢弥惣兵衛によって完成された用水で利根川中流域の行田市下中條先の元圦で取水し、白岡町柴山の伏越(サイフォン式)を通り、上尾市上互葦で「掛渡井方式」により、水路の上に橋を渡し綾瀬川を越え、この先から東縁用水、西縁用水にわかれて鳩ヶ谷市、川口市を通り足立区入谷へと流れています。その後、パナマ式運河と同様の方式である閘門式運河(見沼通船堀)が開通し、武蔵の国が江戸の台所を支える穀倉地帯となりました。すなわち鳩ヶ谷市内の水田は全面的に見沼用水に依存していました。
筆者の父方の本家は代々農業を営み、桜町三丁目七番地の畑ではリンゴの苗木を植栽し、筆者が中学生の頃には父親と共に時折り芽摘みの作業を手伝ったことがあります。桜町六丁目六番地の畑では主にヤツガシラ芋を栽培、桜町六丁目十二番地は現在筆者が住んでいる場所ですが、この地は大龍寺山と呼ばれ第二次世界大戦前に祖父と父が開墾し畑として各種の苗木を育てていました。本町二丁目十一番地では桜、梅、柘植を初めとした各種の苗木とサツマイモ等、本町二丁目十四番地でも各種の苗木、本町四丁目の鳩ヶ谷中学校東側の畑では小麦やサツマイモなどを栽培していました。いずれの場所も現在は全て住宅地となりました。更に、川口市慈林町会のある地域は大龍寺山と権現山(旧東公団)という里山と安行の慈林薬師寺を中心とした高台には斜面林がありました。その間にある低地の中心を現在の江川が流れ、見沼代用水へと注いでいました。この地にも本家の水田が広がり、水田の間には「どい」と呼ばれる小川が流れ、三つの池がありました。これらの池はいずれも大龍寺山を起源とした湧き水が各所から流れて「どい」を形成し、その流れを水田に引水していました。そして、その水田のいくつかは冬でも水が張られている「不耕起」と呼ばれ、土を耕さずに田植えも今のように田植機を使わず、全て手植えをしていました。そして水田にはドジョウ、トンボのヤゴ、タイコウチ、ミズカマキリやタニシなどの水生生物が生息していました。
「どい」では「掻掘り」という小川の水をせき止めたり他へ流したりして水を抜く方法で魚を捕らえたりしていました。捕らえた魚は小さなものはそのまま天ぷらに、大きなものは串刺しにして鴨居に吊して干し、ナマズなどは天ぷら、ドジョウはみそ汁に入れたりと、当時は動物質の貴重な蛋白源となりました。
秋には母が作った竹筒を着けた手ぬぐいの袋を持って、稲田でイナゴを捕り袋に入れた状態で熱湯に入れた後小さなイナゴはそのまま、大きなイナゴは太い後ろ足を外して佃煮にして食べていました。
二〇〇五年八月十二日に降った集中豪雨(総雨量一三八㎜)は鳩ヶ谷市内でも内水氾濫により床下浸水などの被害にあった地域がありました。特に江川流域の桜町や本町ではかなりの浸水被害がありました。この地が住宅となる以前は、大雨が降っても江川が氾濫することはありましたが周辺の水田が全ての水を貯留し、自然の調整池の役目を果たしていました。現在、住宅地以外は道路がコンクリート化され、江川に流れ込んでいた小川なども全て塞がれて水の逃げ場が無くなりました。
旧石器時代から縄文時代にかけて、この付近は海でした。その時代の人々は権現山や大龍寺山などの高台に住んでおり、その証拠として貝塚が出土されています。農耕が始まってから穀物が貨幣に変わり、富の蓄積がなされたことにより多くの人々が宿場町に集まるようになりました。
近代になり都市化が進み、都市の人間は自分たちの生活が第一次産業である農業によって支えられているという実感が失われ、農業や自然環境に対して傲慢さがでてきました。農地は作物を生産するのみならず、人間生活に大きな役割を担っているのです。
江戸時代の中期頃まで現在の鳩ヶ谷市、さいたま市の地には池や沼が多く散在していましたが、見沼の場合、武蔵の国の古社で氷川女体神社の御手洗の沼である「御沼」から「ミヌマ」の名が起こったと言われています。現在も氷川女体神社に隣接した氷川女体公園の一部に小さな沼が存在し市民の憩いの場となっています。おそらく、見沼の干拓が行われる以前の自然環境は生物にとって非常に良好な環境であったことでしょう。前述したように江戸の昔に井沢弥惣兵衛を中心として多くの人々が苦労して、見沼の沼や池を埋め立てて膨大な干拓事業が行われました。それによって治水も行われたわけですが、現在の見沼田圃は乾燥化し、川口市とさいたま市の境界に位置する武蔵野線の北側では芝川第一調節池の工事が進められています。この工事は三十年以上に亘る歳月と莫大な費用をかけて工事が進められています。鳩ヶ谷市を初めとする下流域に住む人々を大洪水から守るための治水工事です。現在は大規模な葦原やガマの群落が生育し、おそらく江戸の昔の見沼の湿地帯がこのような状態であったのではないかと思われます。
見沼では郷土誌第五七号で記述した野田の鷺山の存在があり、鳩ヶ谷市内では「五反田の落雁」と呼ばれる碑に刻まれているように、雁が飛来していたことが伺われます。ただ、ここで記述されている雁は今で言うガン類の種類までは特定できません。
今年百才を迎える鳥仲間が子供の頃に越谷市に住んでいて、サカツラガンやマガンを食べた事があると言っていました。また、ヒシクイの群れやハクガンを見たこともあると言っていたことから、鳩ヶ谷市にも数種類のガン類が渡来していた可能性があります。ガン類はカモ類よりも大型の鳥であり、これらの大型の鳥類が生息できる環境が整っていたわけです。それは第一次産業としての農地の存在があったからです。
鳩ヶ谷市は昭和の初期に耕地整理が始まりました。見沼代用水の富士見橋の袂に、埼玉県書記中里久蔵撰文、平野政一郎書による「鳩ヶ谷耕地整理碑」が一九三三年三月に建立されています。昭和の後期から平成の現在に至るまで区画整理事業が市内各地で行われ、それにともない農業が衰退していきました。更に一九八二年には見沼代用水がコンクリートによる護岸化、俗に言う三面舗装が行われ農地の乾燥化が一層進みました。
今年も市内に残っている田圃では稲穂が実りましたが、これらの田圃もいつまで農地として残っているかはわかりません。江戸の昔より宿場町として栄えてきた鳩ヶ谷市の商店街が現在はマンション街へと様変わりしています。
近い将来、鳩ヶ谷市内で水田を見ることが出来なくなるかもしれません。鳩ヶ谷市の自然環境を活かした農業と共存する街作りが出来なかったものかと思いますが、今となってはそれも叶いません。既に鳩ヶ谷市内では広い田園風景は過去の写真でしか見ることが出来なくなりました。