縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第57号 平成18年5月18日
鳩ヶ谷の生物4
俗に言うシラサギについて
藤波不二雄
一般的にシラサギと呼ばれているサギは、白い鷺の仲間を総称してシラサギと呼び、分類学的にはコウノトリ目サギ科に属します。この仲間は世界に六十一種類、日本ではすでに絶滅したとされる小笠原諸島に生息していたハシブトゴイ一種を除い
て現在十八種類が記録されています。そのうち、一般的にシラサギと呼ばれているサギは体全体が白く見えるコサギ、チュウサギ、ダイサギ、アマサギの四種類です。但し、アマサギの夏羽は頭部と頸部および背に黄橙色の飾り羽があるところから、以前はショウジョウサギ(猩々鷺)と呼ばれていました。そのほかにも、沖縄・八重山地方の海岸に生息するクロサギの白色型や稀に中国などから渡来するカラシラサギなども体全体が白いシラサギの仲間です。
鳩ヶ谷市内では過去において前述した四種類のシラサギが三十年ほど前まではごく普通に生息していましたが、近隣に存在していたサギ類の集団繁殖地の消滅、さらに区画整理事業に伴う農地の急激な減少や農薬などの影響により激減し、近年ではコサギとダイサギが見沼用水や芝川などで稀に観察される程度になってしまいました。特に市内の水田の減少は著しく、一九六七年から一九七七年の十年間で水田面積の半分が宅地化されました(図-1)。更に年々宅地化が進み、現在水田の面積をグラフ上に現すことが困難になるほど減少しました。
野田の鷺山その成立から絶滅まで
旧日光御成街道(旧国道一二二号)沿いの「サギ山記念公園」、その西側の宅地林に特別天然記念物に指定されていた「野田のサギ山」がありました。「サギ山」というのはサギの仲間(ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギ等)の集団繁殖地(コロニー)のことです。この「野田のサギ山」は古文書により一七二〇~三〇年頃(享保年間)に成立したと考えられています。その当時のサギは特別天然記念物指定地であった場所から北西約七〇〇㍍の所(さいたま市浦和上野田字西台)にありました。サギ山が成立するためには採食地である湿地と休息、繁殖の為に営巣する林とが隣接している必要があります。「野田のサギ山」は前述したような条件にあった広大な「見沼田んぼ」が存在することにより成立したのです。江戸時代、このサギ山は徳川紀州家の御囲鷺として大切に保護されていました。しかし一八〇四年にサギ山となっていた屋敷林の竹や樹木のほとんどが枯死したため、サギ山はすぐ隣の寺山村に移り、その後次第に数を増しながら隣接する代山村、上野田村にもサギ山は広がりました。明治に入ると御囲鷺の制度は廃止されましたが一八九四年(明治二七年)にはサギ山の一部が御猟場の区域に入り、さらに一八九七年(明治三〇年)には残りの部分も禁猟区となり再び法による保護の手が加えられるようになりました。しかし竹林の傷みと周辺の開発のため、やがて寺山や代山からサギは姿を消し、サギ山は上野田だけになってしまいました。一九五五年頃には親鳥だけで約一万羽、雛鳥を合わせると三万羽ものサギがみられたと言われています。ところが一九六〇年代になって野田のサギ山に集まるサギの個体数は急速に減少し始めました。そして一九七一年頃に数百羽のサギが集まったのを最後に、翌一九七二年からは野田のサギ山でのサギの繁殖は全く見られなくなってしまったのです。(野田のサギ山 (浦和市立郷土博物館 「見沼・その歴史と文化」平成十年三月)
なぜこれほどまで長い歴史をもつサギ山が短期間に消滅してしまったのでしょうか。確かなことはわかりませんが次のような原因が考えられています。
①サギ山周辺の都市化が進み、また観光地化してしまったためサギたちが安心して子育てできる環境ではなくなってしまいました。
②当時、多量に使用された水銀系の農薬による中毒および餌生物の減少。
③竹林の枯死による営巣場所の減少と営巣樹木の露出による鳥の不安感の増大。
恐らくこれら①~③の原因が重なり合ってサギ山の消滅をもたらしたのでしょう。サギ山の消滅は私たち人間に何を物語っているのでしょうか。国指定の特別天然記念物「野田のサギ及びその繁殖地」は江戸時代の亨保年間に繁殖地が出来たと言われています。一九八四年に指定解除となり二五〇年にわたるサギ山保護に終止符がうたれました。江戸時代、サギ山には土地の人から鷺大尽と呼ばれる守富家があり、徳川八代将軍吉宗(一七一六~一七三五)の頃には屋敷内の山林、竹藪にサギ類やカワウが群棲して、文久四年(一八六四)頃まで毎年渡来するものが多かったと言われています。そして、安永年間(一七七三~七八)には寺山、代山、上野田の地域までサギの群棲地が広がり、安永五年(一七七六)に、時の将軍家治が日光東照宮への参詣の途上、大門宿に本陣をおいて一泊し、将軍は街道から籠の簾を上げてシラサギの群棲する光景を賛美しました。その後は鳥見役を置いて林に竹垣料として金子若干を下付したといわれています。歴代の将軍の供をした歌人や絵師が好んでシラサギの観察記録や絵巻物などを書き、その絵巻物の上野田地域にはシラサギだけでなく、クロトキも判然と描いてあって、当時ここにクロトキが飛来した事を物語っています(一九七八年、清棲幸保著、日本鳥類大図鑑)。最後は日光御成道沿いの「五軒の農家」の屋敷林に限られていました。「鷺山」、「境界」と彫られた自然石があり、その結界石は現在浦和市郷土博物館に保存されています。前述したようにサギがここに巣を作るようになったのは、享保年間(一七一六~三五)徳川八代将軍吉宗の頃です。当時江戸への食糧供給を目的に行われた見沼干拓事業により、沼が浅い水田となりサギにとって格好なエサ場が出現したことが原因の一つであるといわれています。以来、紀伊徳川家より御囲鷺として保護されてきました。この地の主要街道である一般国道旧一二二号線は昔、日光御成道と呼ばれ、徳川将軍が日光参詣の途中、このサギ山に立ち寄り上覧をした記録も残っています。その後、明治、大正の頃は禁猟区として保護され、一九三八年には野田村鷺繁殖地の名で天然記念物に指定され、続いて一九五二年には特別天然記念物に指定されました。当時の指定面積は一、四㌶ほどで五軒の農家の屋敷林にサギが巣をかけていました。ここに来たサギは五種類でチュウダイサキ(ダイサギの亜種)、チュウサギ、コサギ、アマサギおよびゴイサギがいました。一九五七年頃巣の数が六千個を数えていたサギ山もだんだん減りはじめ、一九七二年にはゼロとなり、色々の手当をしたにもかかわらず飛来はあるものの営巣はされず、他の場所に移動してしまいました。このような状態からサギを野田に人為的に戻し将来にわたって維持していくこ
野田の鷺山全景(1962年撮影)
とは殆んど不可能な状況となりました。このサギ山を記念してその名前が永久に残るよう、また、長く市民に親しまれてきたサギたちを偲ぶ縁として記念館と共に、サギをかたどったモニュメントを配置した公園が出来ました(野田のサギ山、昭和六一年五月開園・浦和市立さぎ山記念公園のパンフレット参照)。
私が始めて野田のサギ山を訪れたのは一九六二年で県立川口高校生物部のクラブ活動の一環としてサギ山に飛来するサギ類の調査をする事になり、往復約二十㎞の道を自転車で通っていました。ちょうど、その当時にさいたま市(旧浦和市)で写真店を経営していた写真家の田中徳太郎氏がサギ山の中心にある五軒の農家の一軒を足がかりとして写真撮影に通っていました。農家の庭先でお茶を飲んでいた田中氏にお願いして、田中氏がコロニー内に立てた観察櫓の上でサギの生態観察の許可を得て観察を始めたのが最初です。観察櫓は足場を組み立てサギを脅かさないように周囲をむしろで囲って、カメラのレンズの筒先だけを出して写真を写すように出来ていました。下から見上げるサギ山と上から見おろすサギ山は全く環境が違いました(写真―1)。手に届く位置で各種のサギの巣作りの様子や卵あるいは各成長段階の雛鳥や雌雄の愛情細やかな子育ての様子などが観察できました。また、何度かサギ山通いをしている間に、田中氏の撮影の手伝いをしながらサギ山の歴史や各種のサギの生態学的な知識を得ることが出来ました。田中氏は、一九五四年から一九七二年までほぼ毎日のようにサギ山に通ってサギの写真を撮り続けていました。その作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館や近代美術館などに永久コレクションとして展示されるとともに、フランスからは文化大臣賞を受賞しました。さいたま市にあるシラサギ記念自然史博物館で作品の一部を見ることが出来ます。
野田のサギ山で繁殖したサギ類はダイサギ(亜種チュウダイサギ)、チュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギの五種類で、毎年春の彼岸すぎに飛来し、つがいとなって雛をかえし、秋の彼岸頃には飛び去っていきました。巣の数は最盛期には六千個を数え、上方から眺めると、まるで雪を散らしたような景色でした。これだけのサギの生命をささえたのが背後に控える見沼たんぼです。千二百㌶の見沼たんぼにはサギ類のエサであるドジョウ、フナ、タニシ、カワニナなどの魚貝類や昆虫などの宝庫であるとともに、底の浅い水田は採餌にもってこいの場所でした。サギ山には渡りをしないコサギの一部が越冬しており春になるとチュウダイサギと呼ばれるダイサギの亜種が第一陣としてやって来ました。チュウダイサギは別名コモモジロとも呼ばれていました。同じ頃、他の地方で冬を過ごしたコサギが隊を組んで飛来しました。そして、サギ山ではチュウダイサギがケヤキ、シイ、あるいはイチョウのような木の高いところに営巣しました。コサギは留鳥であるためか日中は近所の水田に降りていることが多かったが、チュウダイサギは自分の巣を決めると同時に、すぐに恋愛活動に入りました。雄は長い首に反動をつけて雌の前に突き出し、その瞬間「ビュイッ」というような音を出します。このようなプロポーズはあちらでもこちらでも見られました。春のシラサギはとても優雅であり、純白かつ端正な姿はとてもすばらしいものでした。絹のような蓑毛がふんわりと雨覆羽の先にのびています。その情景を佐々木信綱はこう詠っている。
名におえる野田のサギ山白妙の袖ひるがえす天津舞姫
この美しい蓑毛が災いして、アホウドリと同様にサギにも暗黒の時代がありました。大正時代にはこの蓑毛を婦人帽の飾りにすることが世界的に流行したと言われています。 シラサギが蓑毛を身にまとうのは春の繁殖期の頃だけです。この頃の親鳥を殺して蓑毛を採るのであるから巣にいた卵や雛は育たずに死んでしまいます。また、農家の人から見ればサギは必ずしも歓迎されていたわけではありません。やむことのない異様な鳴声、水鳥独特の糞尿、あるいは田植え後の稲の踏み荒らし、さらにはサギ目当ての観光客などは、五軒の農家にとっては私生活をおびやかされる問題でした。しかし永年排泄された大量の糞尿により一九六五年頃から竹林の枯死がおこり、さらに周辺環境の変化が急速に始まりました。それに呼応するように年々サギ山に飛来するサギの個体数が減少し始めました。また、巣の中で死んだ卵や雛、あるいは巣立ちできずに巣の下に落ちて落鳥する若鳥などが目に付くようになりました。この頃サギ山でサギの生態観察をし、詠まれた歌があります。
「野田の鷺山」 長谷川源司
白き鷺空に乱れし有様をまぼろしに見て日を経つつをり
来む日々も人を見らむか青葉のうえ脚たかく立つこの白さぎを
何かありて樹より舞ひたつ鷺のむれおどろく数なりつぎつぎに舞う
巣ごもりに見ゆる鷺の巣しらさぎの雛が身をのべて羽ばたくものを
ごいさぎのうすぐろき濁りとなりて舞ふ白さぎはすでに樹にしづまれば
(財)日本野鳥の会・会報「野鳥二八八号」より抜粋
消えゆくサギの群れ
野田のサギ山のサギは、一九六五年ごろから減り始め、一九七二年の春にはサギ山に一羽のサギも飛来しなくなりました。その一方で、一九六六年に南埼玉郡の白岡町に新しいサギ山が見つかりました。おそらく野田のサギ山のサギの一部が分散したものと考えられます。また、野田のサギ山が消えた後サギは西縁見沼用水沿いにある三室の山崎の雑木林に移り住み、一九七七年までそこを新しいすみかとしました。
この間、市や県、地元の人々が協力してサギの保護に努めました。しかし、一九七四年にサギ山のある林の開発問題が発生し、一九七八年に三室のサギ山からもサギが姿を消しました。その後、三室を追われたサギは東縁見沼用水沿いにある国昌寺付近の雑木林にコロニー(集団繁殖地)を移しましたが、ここも長続きはしませんでした。
国昌寺付近にサギが営巣していた頃までは、見沼田圃や川口・鳩ヶ谷市周辺の田圃でも多少シラサギが目につきました。しかし、国昌寺のコロニーが消失してからは、区画整理や宅地化の波に圧されて、農耕地の減少が著しくなったことも原因となり、シラサギの姿を見る機会が少なくなりました。
川口市のサギのコロニー
川口市にも小規模ながら二ヶ所のサギ山がありました。おそらく殆どの人が、その存在すらも知らない内に消失してしまったのですがコロニーのあった場所は、
①通称赤井の山と呼ばれていた赤井の杉林でした。現在は、若ゆり学園の敷地になっていますが、野田のサギ山の個体数が減少し始めた一九七〇年頃からうっそうとした杉林に営巣しはじめました。初めはサギのコロニーがあることに全く気がつきませんでしたが、サギ類特有の糞のにおいとギャーと鳴くゴイサギの声によってその存在に気がつきました。私の知っている限りでは三年間ほど毎年百羽前後のゴイサギとコサギが営巣し、雛を育てていました。一面が薄暗い杉林のため、杉林の中に入り下から巣の存在を確認する程度の観察しかできず写真記録をとることも出来ませんでした。
②他の一ヶ所は赤井のサギ山と同時期に、峯の八幡神社に近い大竹地区の雑木林にありましたが、私が確認した次の年には、この林は宅地化されてしまいました。残念ながら、①、②両地区ともサギ類にとって安住の地とはなりませんでしたが、川口市にも小規模ながらサギ山があったことを記録にとどめておきたいと思います。
安行領家地区におけるコサギの個体数の推移
野田のサギ山からサギが消え、三室のサギ山に移動しましたが、見沼田圃では見沼代用水の三面舗装および農地の整備が進み、水田が乾田化され、それに伴い休耕田が増加し、水田、水路、見沼用水といった水のネットワークがきられたことにより、サギが餌を採る場所も減少してきました。そこで、筆者が継続して野鳥の調査を行っていた安行領家(現在、安行植物取引センタおよび安行スポーツセンター)の休耕田でコサギの個体数の調査を行いました(図―2)。この地域は、一九七二年頃まで水田が広がり、その一部にレンコン畑や休耕田化した葦原と湿地および小さな池があり、多種多様な生物が生息していました。コサギは水田や湿地の浅い開水面で採餌をしたり、休息をしていました。一九七五年頃から水田が放置され休耕田が増加しました。コサギが飛来する時期は春と秋の移動の時期に集中して個体数が増加しましたが、特に八月~十月頃の秋に多い傾向が見られました。一九七四年~一九七五年までは二十羽~三十羽
ほどが飛来していました。一九七五年には一時的にコサギの飛来数が百二十羽まで増加しました。しかし一九七九年の八月に
は休耕田が宅地開発のために全てが埋め立てられて、湿地は消失しました。それと共にコサギの飛来もなくなりました。
農薬の影響は
ある年、友人の獣医師と共に水田で保護されたコサギ二羽を解剖したところ、肝臓が黄変していました。後に解ったことですが有機水銀による農薬による中毒死でした。また、別の場所で拾得され解剖されたサギの死体からは肝臓で十六.九ppmという、健康体の十倍近い高濃度の水銀が検出されました。
DDTに代表される塩素系、水銀系などの毒性の強い農薬は戦後、急速に普及しました。一九六九年にパラチオンの使用禁止、一九七〇年にBHC、DDT等の市販が禁止されましたが、餌生物の連鎖によってもたらされた有害な化学物質の生物濃縮がおきたと考えられ、その結果、サギの体および生殖系に影響をおよぼしました。害虫や病害の駆除、安全衛生をうたい文句に国策として広がった農薬は、二百五十年繁殖し続けた野田のサギ山のサギを瞬く間に消し去ってしまいました。その当時、母乳中からBHC、DDTを検出等の新聞報道がなされていました。
一九七五年八月二十三日、野田の鷺山に近い上新宿地区の水
農薬散布 中毒死したチュウサギ
(大島久明氏提供) (大島久明氏提供)
田地帯でヘリコプターによる農薬の散布を行っていました。この頃は、七月と八月に早朝から薬剤散布が行われていました(写真―2)。前述した薬剤散布の当日に、片柳地区の水田で薬剤散布の影響によって死亡したと思われるチュウサギが観察されました。この頃各地でシラサギ類の大量死が新聞等で報道されていました。その頃詠まれた短歌の一つに、
猛毒のホリドール散布せしのちの夫の体を気にしつ寝る
作者不詳
一九六二年にアメリカのレイチェル・カーソンが「沈黙の春」という本を出版しました。日本では「生と死の妙薬」というタイトルで一九六四年に日本語版が出版されました。燐酸系有機合成農薬の生態系内での生物濃縮による環境破壊を啓発したカーソンの警告を野田のサギが身をもって現したと言えるでしょう。サギは水田の生態系の頂点にいます。サギがいなくなれば当然その生態系は崩れてしまいます。バランスの崩れた生態系は他の生物にも影響を及ぼすことになります。
その他のサギ類
市内では前述したシラサギ類四種類の他に、ササゴイ、ゴイサギ、アオサギの三種類が記録されています。ササゴイは、夏鳥として春になると東南アジア方面から渡来し、秋になると飛去する渡り鳥ですが、近年は温暖化の影響か、大阪城公園のお堀では冬でも時々観察されているようです。他のサギ類に比べ、足が短く、体の色も地味な鳥です。全国的に釣り人口が増加している中、フライフィッシングという釣りの方法が流行っているそうです。水面に浮かぶ虫を食べるフライ(毛針)で釣る方法で餌だと思って食らいついたらニセモノというわけです。実はササゴイも毛針釣りによく似た行動をします。一昔前のテレビコマーシャルで見た方もいるかもしれませんが、最初に観察されたのは熊本県の水前寺公園で一羽の成鳥が発泡スチロールの小片の様なものを口にくわえ、風上の方へ投げます。目の前に流れてくるまで身を伏せて、小片の動きを見つめ、首を伸ばして、その小片を嘴で捕らえます。くわえなおして又投げる、その動作を繰り返し、餌と間違えて食らいついてきた魚を捕らえる。というような具合で魚を捕らえている頭の良いサギもいるようです。水前寺公園以外ではあまり知られてはません。鳩ヶ谷市内で見る機会は殆どありませんが、夏の夜空をキュウキュウと鳴きながら飛んでいくことがあります。
ゴイサギは、漢字では五位鷺と書き、幼鳥は体中に星のような斑紋があるところから星五位と呼ばれています。また、ゴイサギはカラスのような濁った声で、夜空を鳴きながら飛翔するところから、夜ガラス、英名でもナイト・ヘロンとも呼ばれています。
ササゴイ同様、夏鳥として春になると東南アジア方面から渡来し、秋になると飛去する渡り鳥ですが越冬しているものもいます。他のサギ類に比べ体がずんぐりしていてペンギンと間違われることもあり、大阪の道頓堀に現れて、「ペンギン?現る」と報道されたこともあります。幼鳥は前述したササゴイの幼鳥とよく似ており誤認しやすい。
アオサギは、漢字では蒼鷺、体が青灰色をした大型のサギです。英名は「グレイ・ヘロン」以前は市内での記録がありませんでしたが、近年は関東各地で繁殖地が広がり、市内でも芝川などで見かけることがあります。他のサギ類が減少する中、逆に増加傾向にあります。特に、荒川の彩湖や見沼田圃の芝川第一調節池などの工事により広大な水辺が増加したことによってアオサギが増加したものと思われます。