縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第56号 平成17年11月18日
鳩ヶ谷の生物3
ツバメと葦とオオヨシキリ
藤波不二雄
鳩ヶ谷市内で繁殖したツバメの雛は最盛期には七百五十羽以上巣立っていましたが、このように無事巣立ちした雛は数日の間は親鳥に面倒を見てもらうのが普通である。
まもなく飛ぶ力もつき、餌をとる技術を覚えると若鳥達は新しい生活にはいる。これまでのごみごみとした騒音の激しい人工的な環境から離れ、群れをつくって河原や休耕田などの葦原などに集まり、
六月の初め頃から葦原に大きな塒が出来る。市内で育ったツバメは芝川沿いに生育している葦原や川口市行衛の休耕田などに集まり、集団塒をとっていました。
鳩ヶ谷市では年々農耕地や緑地が減少し、葦原も同様です。市内ではNHKの里放送局(鳩ヶ谷高校)、鳩ヶ谷中学校と江川の間にあった休耕田あるいは毛長川調整池などに比較的まとまった葦原が存在していたがいずれも消失しました。現在は芝川川岸の各所に少しずつ、毛長川調整池ではわずかに葦原が残っていますが、大半はテニスコートになってしましました。トンボ公園に新しく創出された小規模な葦原は区画整理により宅地化されてしまいました。それでも市内に残っている葦原ではいろいろな生物の営みが行われています。
鳩ヶ谷市内で生まれ育ったツバメは、川口市の行衛・差間地区に広がる葦原に塒をとっていましたが、現在でもこの葦原は川口市の「見沼自然の家」周辺にかなりの面積が残っています。そして、この地の周辺では芝川第一調節池の工事が進行しており、毎年数多くの野鳥が飛来しノウサギやイタチなどの野生生物が生息しています。
ヨシは古来より葦船やヨシズなどに利用され、宮内庁の雅楽団が使用する「ヒチキリ」の口部分(芦舌)の材料にも使用されてきました。
さて、この葦原だが古事記の記述によると、日本は「豊葦原の瑞穂の国 (とよあしはらのみずほのくに)」とされている。言葉のとおり、豊かな広々とした葦原のように、みずみずしく美しい稲穂が実る国ということであろう。弥生時代になって人々が低地に定住して米作りを始めると、河川の氾濫平原や湿地は、もっとも米作りに適した土地として、豊かさを象徴する存在になったに違いない。当時の地形と現代の地形では、かなりの違いがあると思われるが、現代の沖積平野のほとんどが、氾濫河川敷や葦原の低湿地だったと考えられる。そしてそこは美しい瑞穂の国だったのである。ヨシは水に浸っているような場所でも、やや乾燥気味の場所でも地下水位がある程度の深ささえあれば生育することが出来ます。
ヨシが好む環境は地下水位が高く、年間を通して時々水を被るような水条件で、気温は暖かく、水に浸かる場合は水が流れているよりも、静止した状態で、土は泥っぽい方がよいようです。
そういう条件がある場所ならば、旺盛に広がって他の植物の生育を押さえて優占種となり葦原を作ります。ヨシは主として地下茎で繁殖する多年草です。そして、水の汚れを吸収したヨシは人間が刈り取るか燃やさないと、きちんとした太い芽が出ません。燃やすことによって、地表の温度と地下の温度の差によって発芽を促進することが出来ます。
筆者が十年間住んでいた大阪の中心部を流れる淀川ではヨシが地上に芽が出て来るのは三月頃です。四月にはいると、どんどん伸び始め、更にぐんぐんと伸びてきたヨシは、六月に入るとオオヨシキリが棲息するのに絶好の条件となります。
精巧に作られた巣と3羽の雛
淀川のヨシは河川敷では幅広い環境のもとで、最優占種となりますが、最近では河川の改修工事が行われ、野球のグランドやゴルフ場などの人工施設が建設されています。
その影響を受け、自然の草地が失われている中で、まとまった面積を持つ葦原はごく限られた場所だけになってきました。
中でも昔から有名な葦原は、高槻市道鵜町(淀川右岸)にある鵜殿である。
鵜殿は大阪府最大の葦原ですが、一万羽以上のツバメが集まって塒にしている葦原は、大阪市東淀川区にある豊里大橋の少し下流から城北大橋あたりまでの右岸に広がる葦原である。通称「バクダン池」と呼ばれる大小の「たまり」があり、一年中水に浸かった葦原と、それに隣接した湿地の葦原が広い面積で存在する場所です。
水量が多くていつも冠水している、自然状態の淀川河川敷の様子がうかがえる場所でもある。この葦原は、オオヨシキリをはじめ多くの野鳥に様々な生活の場として利用されている。 同時に、昔から私たちの身近で夏の間、日本で雛を育てているツバメにとっても葦原は大変重要な場所なのです。
すでにツバメの巣造りのところで述べたように(鳩ヶ谷郷土史会会報第五十五号)、ツバメは四月下旬から七月頃まで、店の軒先などに巣をかけて雛を育てます。
雛が巣立つと若いツバメ達は親から独立して集団となり、夜は葦原に集まって集団塒をつくり夜を過ごす習性があります。この塒は十月頃南の国へ帰っていくまで利用されている。夕方になって一万羽を越えるツバメが集まってくる様子は壮観です。
日本のツバメは、越冬地のマレーシアやフイリッピンでも集団の塒を作っていることが報告されています。
ツバメの塒入り
子育ての後、塒を作るのは一番仔が育った六月頃から九月下旬頃までのようです。一九九一年九月七日に淀川の塒で筆者がツバメの塒入りを観察したところ、ツバメは十七時頃から、一羽、二羽と少しずつ数を増し、塒の葦原に向かって帰ってきます。梅田方向から淀川を渡ってくるツバメは、淀川の川面をすれすれに三々五々と集まってくる。豊中、箕面市方面から来るツバメは、淀川堤防の上空から川面へでて葦原に向かいます。そして、人工的に創出された「ワンド」を通過する時には、必ずといって良いほど水面すれすれに飛んだり、あるいは水を飲んだりして行くことが多い。
梅田よりもかなり遠方から集まってくると思われるツバメは、上空をかなり高く飛翔し、城北大橋上空から斜めに横切って葦原に飛び込んで行く。六時頃まではのんびりと他の野鳥の観察や景色を見ている余裕があるが、日の入り前後のツバメの集まり方が凄い。二百羽、三百羽、五百羽ぐらいの群れがあちらからもこちらからも、と言う具合に集まってくるとカウンター(数取器)は押し続けとなります。
日の入り後の十八時二十分から二十五分までの五分間は、鶴見区、東大阪市方面から無数に、バラバラ、バラと空から降ってくるように集まってくる。上空を飛んでくるツバメは千六百羽までは何とか数えられたが、低空で飛んでくるものは土手と重なり見えなくなってしまいます。それでも、葦原の水面のある場所で見ていると、城北鉄橋の下をくぐって葦原の上をすれすれに飛んできて、水面を掠めるようにして葦原へ飛び込んでいきます。
この日は、人工ワンドに陣取り、数えた数は約四千羽であった。このようにして集まってくるツバメの群は、さしずめ、大阪駅、東京あるいは新宿駅などターミナル駅の朝夕の通勤ラッシュのようなものです。
集まってきたツバメは、葦原の上空を低空で飛び回り、やがて葦原に入りますが、見ていると葦原への入り方には、二つのタイプがあるようです。一つは、葦原の上空を低く飛んだ後に葦原へおりるタイプ。これはどちらかというと、割合明るい時間に帰ってくるタイプに多いようです。もう一つのタイプは、木の葉が落ちてくるように葦原へ舞い降りてくるタイプで、日が沈みかけて早く塒に帰らなければとでも言うように、暗くなってあわてて帰ってきた群れが大急ぎで葦原に舞い降りるタイプです。
前者を「流れ」、後者を「木の葉落とし」と名付けられているようです。この木の葉落としはムクドリやコサギなどの塒入りでも見られますが、ちなみにサギ類では、「キリモミ」するような形で塒入りするタイプが多く、鳥によって塒入りの仕方がかなり異なるようです。
塒入りしたツバメは、夜間アシの穂や葉の上に止まって夜を過ごし、翌朝には日の出の十分から二十分前頃に、数百羽単位の群れで次々と葦原を飛び発っていきます。しかし、これだけのツバメ達が昼間どこで分散して生活しているのか不思議な気がします。
オオヨシキリと葦原について
ツバメと同様に葦原を利用している鳥がいます。オオヨシキリはスズメ目ヒタキ科ウグイス亜科ヨシキリ属に属し、世界中に三十三種類が分布している。日本で記録されているのはイナダヨシキリ、ハシブトオオヨシキリ、コヨシキリ、オオヨシキリの四種類。このうち、イナダヨシキリとハシブトオオヨシキリは極東の沿海州やシベリアなどで繁殖し、日本へは稀に渡来する迷鳥である。コヨシキリとオオヨシキリは春に日本に渡来し、繁殖し、秋には南へ帰る渡り鳥です。
ヨシキリの名は、①葦を裂くような鳴き声、②葦を割り茎の中の虫を食べる、③葦の中を切るようにして行動する、などが語源と考えられているが、いずれも定かではない。
オオヨシキリは昔から葦原の住人として俳句や短歌などにもよく読まれており、一般的にはヨシキリとも呼ばれている親しみのある鳥である。
葭原に鳴く葭切の声まじへ夜すがら絶えぬ河の瀬の音
中西梧堂
庭十坪市に住むまへど春さればあおじさへずり夏行々子
伊藤左千夫
葛飾はあやめ田どころ水どころ葦あればなくよしきりの声
太田瑞穂
目覚めれば障子明るく葦切りの鋭き声の響く初夏
田中幸恵
麦の出来悪しと鳴くや行々子
高浜虚子
行々子どこが葛西の行留まり
小林一茶
葭切や揺れつつも鳴く葭のさき
水原秋桜子
古来より歌人はオオヨシキリ(大葦切・大葭切・行々子)というと葦原を思い、葦原というとオオヨシキリを連想するほど、この鳥はヨシという植物と密接な関係がある。というよりは葦原が無くては彼らの生存はないのです。
ツバメは家や建築物などに巣を営み、人間の手厚い保護によって昔から繁栄をしてきたが、同じように人間と一番密接な鳥であるスズメは人々にいじめられながらも、旺盛な繁殖力と直接的、間接的に人間の恩恵によって繁栄している。オオヨシキリは葦原という特殊な環境に執着することによって繁栄してきた鳥である。他の野鳥の場合は、特定の植物でなくても、それぞれ好みに合わせて繁殖をしているがオオヨシキリのように一種類の植物にのみ執着心を示す鳥は少ないであろう。田園地帯の歌手であるオオヨシキリはヨシ原に寄生するかのように特殊な環境に執着することにより生きているのである。つまりは融通性がない野鳥といえる。減反政策のお陰で多くの水田が休耕田となり葦原が増加したことはオオヨシキリにとって大変喜ばしいことであったに違いありません。
オオヨシキリの鳴き声は独特で遠くまで聞こえるので、地方によってはいろいろな聞きなし方があるようだ。ギョギョシ、ギョギョシ・ケケシ、ケケシ、ゲゲェ、ゲゲェ・カラカラ・ギョギョシなどととても複雑な声であるが、この鳥は昼ばかりでなく夜もなく。オオヨシキリが日本へ戻ってくると同時に自慢の大声をはりあげて、我が世の春を謳歌するのは多くの雌を得るためであり、オオヨシキリは一夫多妻なのである。毎年四月下旬に渡ってきて、繁殖を始めるのは五月下旬頃です。その間何をしているのか。
前述したように、ヨシの生育と密接な関係があります。オオヨシキリが渡来した頃はまだヨシが伸びていないのです。
オオヨシキリは通常、密生した葦原の中程にヨシの茎を数本束ねて草を上手に編んで巣を営む。渡来した当初は前年の枯れたヨシと芽吹き始めた丈の低いヨシしかないため巣を作ることが出来ないのです。
近年、天変地異が多くの国で発生しているが、オオヨシキリも巣の高さを決めるときに、巣の高さを高くする年は大雨が降り巣が水に浸からないようにするという伝承がある地方もある(秋田地方)。通常オオヨシキリの水面からの巣の高さは一メートル前後が多いようである。例外的には二メートル近くになる場合もあるようです。
巣の構成は深い腕形か壺形という感じで、通常は三本から五本のヨシの茎に枯草やヨシの葉などをからみつけるようにしっかりした巣を作り、多少の風で揺らいでもしっかりと固定されています。
普通野鳥は巣が完成すると、産卵を始め一日一個ずつ卵を産み、数日かかって一腹分の産卵を終えます。それから巣にこもって熱心に卵を温め(抱卵)、ある日数を経過すると雛が生まれ、孵化と同時に親は餌探しに忙しくなり、親としての責任を果たす為に飛び回ります。オオヨシキリの雌雄も例外ではなく、同じような経過を辿って繁殖行動を行いますが、ツバメと違って、この鳥の巣は外部から簡単に見ることが出来ない環境にあります。
オオヨシキリの卵は、産卵後十一日から十二日で雛が卵から孵化します。雌親は苦労して育てた雛の顔が見られますが、一夫多妻の雄親は、子育て中は殆ど巣に付くことがないと言われているのんきもの亭主です。オオヨシキリの育雛期は六月中旬頃から酷暑時の八月頃に亘るので、狭い巣内にいる雛たちは毎日、蒸し暑い暑さと耐えなければならないし、特に幼雛には直射日光は危険であるので相当の苦痛に耐えなければならない。この時期の葦原の蒸し暑さは人間でもたまらない。背丈を超えた葦原の中を歩くだけで大汗をかき、蒸し風呂に入ったようなもので、一時間も葦原に入っていると目がくらくらするほどのぼせたようになるくらいであるから小さな雛にとっては地獄であろう。それでも、巣は上手に作られており、ほんの少しであっても葦を揺るがす風があれば、交叉している葦の葉が陰を作り涼風が絶えず流れるので少しは緩和されるのでしょう。
オオヨシキリが葦原に住んでいるのは、葦原に生息する昆虫などを他の野鳥と競合することなく捕ることが出来、育ち盛りの雛たちに豊富な餌を与えることが出来るからである。ツバメも葦原の上を飛びながら飛んでいる昆虫類を捕らえますが、葦原以外の場所でも捕ることが出来ます。
梅雨が明け真夏になる頃には、葦原ではオオヨシキリを見る機会が少なくなります。あれほどヨシの穂先で囀っていたオオヨシキリの雄は雛を育て終わると目立つ必要が無くなり、鳴くことをやめてしまいます。時々葦原の上を飛ぶオオヨシキリを見かけることはありますが、すぐに葦原の中に姿を消してしまいます。
オオヨシキリの意外な天敵
オオヨシキリの天敵としては、ヘビやイタチなどが考えられますが、意外な天敵は同じ野鳥の仲間のカッコウです。卵を抱いている雌が巣を離れたすきに、カッコウは巣の中に卵を一つ産み落としていきます(託卵)。オオヨシキリの卵と一緒に育てられたカッコウの卵はオオヨシキリの卵よりも先に孵化します。カッコウの雛は生まれてすぐに自分以外の卵や後から生まれてきたオオヨシキリの雛を背中に乗せて巣の外へ放り出します。残ったカッコウの雛をオオヨシキリが育てます。オオヨシキリの雛もカッコウの雛も口の中が赤いので、自分よりも大きくなった雛にせっせっと餌を運ぶ親鳥はおそらく他人の子供とは思っていないのでしょう。しかし、オオヨシキリも産みこまれた卵を捨てたり、新しい巣をつくったりして対抗しています。
カッコウは山や高原に生息し、繁殖する鳥ですが鳩ヶ谷市内でも五月から六月初旬にかけて通過しており、稀に声を聞くことがあります。一九九九年以降、見沼田圃の一角にある「見沼自然の家」付近の葦原ではカッコウがオオヨシキリに託卵し、繁殖しているので姿を見たり、声を聞くことが出来ます。
葦原の効用
一九八六年四月下旬から五月初旬にかけてツルの保護区として知られる中国の札竜鳥類保護区へ行くチャンスに恵まれた。この保護区の総面積は、二十一万七千㌶と言われ、そのうちの十万㌶に亘ってヨシが茂っていました。
まさに一望千里である。保護区の一部では土壁と葦葺きの屋根の家で生活する農民達がヨシで編んだ魚籠を用いて漁をしており、壁土の材料として稲ワラの代わりにヨシを利用していました。
日本でも、ヨシズの材料として古くから利用されているが、全国的に葦原は利用価値のないものとして埋め立てられている。しかし、野鳥にあまり興味のない人でも、周知のごとく葦原と深い関係のあるウグイスの仲間のオオヨシキリは葦原が無ければ棲息することが出来ない。また、子孫を残すことも不可能となります。
夏鳥であるオオヨシキリが越冬地である東南アジアから遙々と海を越えてきて、住みかがなくなるのであるから大問題である。近年大型のトキやコウノトリをはじめ、猛禽類などが絶滅の危機にあるが我々の身近でも夏の風物詩の一つが消えようとしています。果たして葦原は無用の長物なのでしょうか。埼玉県では東部地域は利根川と荒川が「瀬変え」によって流れを改変されるまでは、日本有数の河川集中地であり、その大部分は氾濫原による湿地か草原でした。
現在河川沿いや休耕田に見られる葦原は、小規模ながらも、かつての原風景と言えるでしょう。一見無価値に思える葦原も、そこを知るものにとっては、色々の生物が棲む豊かな生態系を持った貴重な自然である。例えば、川口市差間・行衛地区(現、芝川第一調節池造成地)の葦原は、以前は水田でしたが、葦原となってからは年々その生態系としての質が高まってきています。
それは、高次消費者としてのワシタカやフクロウの越冬数が年と共に増加していることからもわかります。また、近年では今まで見られなかったカッコウ、コヨシキリといった野鳥などの繁殖も観察されるようになりました。森林と異なり、ヨシに代表される草地や湿地は、その造成や復元が容易であり、かつ早いという点からも見直されるべきでしょう。
オオヨシキリが生息する葦原の面積は
筆者は、一九八三年に埼玉県南部に残存する葦原を中心に、葦原の面積とオオヨシキリの関係について調査を行いました。調査地は埼玉県南中央部の市内にある百四十三ヶ所を選んだ。主な地域は、さいたま市から川口市を流れる荒川の河川敷十三ヶ所、通称見沼田圃と呼ばれる水田地帯九十三ヶ所、東北縦貫道と国道四号線の間に挟まれた地域の三十七ヶ所です。
葦原はいずれも孤立した葦原を選択し、現地でのオオヨシキリの調査は五月初旬から六月下旬までの間に実施した。ちなみに、一九八三年の同地域におけるオオヨシキリの初認は四月二十五日から二十六日でした。
観察は主として、晴天の日の午前中に実施し、場合によっては午後にも行った。一㌶以上の大きな葦原では蛇行進法およびランダム行進法を併用し、さえずり雄の個体数を記録した。その結果、葦原の面積が一㌶に及ばない面積ではオオヨシキリの個体数は殆ど増加しなかったが、一㌶以上になると次第に増加し、二~五㌶付近では五~七羽前後、二十㌶付近で二十羽となります。
オオヨシキリの雄十羽が生きていくためには十㌶以上の面積の葦原を確保することが必要である。しかし、同じ面積でも湿地性の葦原の方が乾燥地よりもオオヨシキリの個体数が多い。また、四角い面積の葦原よりも横に長い方が個体数は多い傾向があった(藤波(一九八三年)Strix2:41-46)。
この調査で埼玉県南部七市内の葦原約百五十㌶で確認されたオオヨシキリの雄の個体数は二百四十二羽であった。
翌年、同様の調査を試みたが、一年の間に約三分の一の葦原が減少しており、改めて開発の早さに驚いたものである。また、葦原は現存していても最近の河川改修の三面舗装による葦原の乾燥化はオオヨシキリにとって営巣は可能でも餌生物の減少に伴い、こういった場所は見捨てられる傾向にあります。
鳩ヶ谷市は現在、昔ながらの商店街も様変わりし、メイン道路沿いに高層マンションが林立しつつあり、「鳩ヶ谷音頭」の歌詞に歌われているような、かつての鳩ヶ谷市の自然環境は遠い昔話になりつつあります。郷土資料館で展示される「昔の鳩ヶ谷市」や「郷土史会会報・郷土はとがや」に過去の歴史が残されるだけではあまりにも侘びしい気がします。
葦原はふるさとの原風景としての価値、質の高い生態系としての価値、更に水質浄化機能、遊水機能などがあります。緑の保護というと、森林や公園の樹木に目がいきがちですが、生物的多様性の維持と、親水、治水機能も合わせた水辺景観の創造という点で、葦原の保全は、今後考えていかなければいけない問題でしょう。葦原は決して遊んでいる空間ではありません。人にとっても、オオヨシキリやツバメにとっても。
今年の二月十六日に日本で「京都議定書」が発効されました。COP3京都会議では採択された京都議定書では、先進国は二〇〇八年から二〇一二年までの間に温室効果ガスの全体量を一九九〇年の水準より六%削減することが義務づけられた。しかし、実際にはすでに八%以上も増加しています。つまり、これから達成しなければならない数値目標は十四%以上と言うことになります。産業界の協力や個人のエコライフによって削減する必要があります。
環境省ではエコライフに取り組む家庭と、その代表者(我が家の環境大臣)制度を作りました。この制度は、インターネットでも登録が出来るようになっており、エコファミリーに登録すると、自分の家庭専用のページをつくることができ、環境についてアイデアを投稿したり、家族のエコ生活度をチェックしたりできるなど、家族みんなで「環境に優しい暮らし」に取り組むことができます。
また、埼玉県では四月二十七日に大宮ソニックシテイビルにて埼玉県地球温暖化防止活動推進員を任命しました。推進員は自ら積極的に活動を行うと共に、地球温暖化対策の推進を図るための活動を行う住民に対し、その活動に関する情報の提供や指導、あるいは助言等を行う活動をすることが義務づけられました。他にも色々な取り組みが国や地方公共団体あるいは企業などでも行われています。しかしこれらの取り組みの殆どはエコライフに焦点が絞られています。
もちろんエコライフは重要なキーポイントではありますが、地球温暖化の最大の原因は必要以上の開発に伴う自然環境の破壊です。
足尾銅山の公害によって創出された渡良瀬遊水池は、埼玉、栃木、群馬、茨城県にまたがる日本でも有数の湿原です。この葦原が足尾銅山閉鎖後山手線内の2/3が収まるほどの広大な葦原が存在することはあまり知られてはいません。しかし一度でもこの緑の広がりを目にしたならきっと強烈な印象とともに、いつまでもこのままであって欲しいと願わずにはいられないはずです。
この広大な葦原、渡良瀬遊水池は、かつて足尾銅山の鉱毒被害に立ち向かった渡良瀬川下流域の村々の中でも最後まで抵抗した谷中村の跡地です。今も残る墓地や住居跡を生い茂ったヨシが静かに包んでいます。長年に亘って放置されてきた鉱毒は広大な葦原とそこに生息する多様な生物が、徐々に浄化し今のような自然環境を創出してきました。
今ある自然環境や農耕地をこれ以上減らすことなく、持続可能な社会を作り上げる、あるいは道筋をつくるのは我々が次世代に残すべき責任といえるでしょう。