縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第55号 平成17年5月18日
鳩ヶ谷の生物2
現代ツバメ事情―ツバメの生態
藤波不二雄
一.燕のピーチャン帰ってきたよ
風にのっかり 南の便り
軒の古巣に もどってる
スクールゾーンを 燕尾服
スイ スイ ス~イと 宙返り
二.燕のピーチャン帰ってきたよ
巣作り上手に 軒下飾り
お椀のように 盛り上げる
子燕いっぱい 口開けて
うっすら 夜明けに チュクチュクチュ
この歌は筆者が所属している大阪の淀川ネイチャークラブの会長である小竹武氏が、毎年自宅の軒下に帰ってくるツバメの観察から作詞したものである。
人間と最も身近な鳥、親しい鳥と言えばスズメ、カラスが知られている。確かにスズメやカラスは誰でも知っていて、一年中我々の身近にいる鳥であるが、それ以上に親しまれている鳥と言ったらツバメであろう。ツバメは昔から農家の納屋や軒先に巣を作っている。ソバ屋、理髪店、カメラ店といった、いつも私たちが利用しているような商店に巣を作り、その燕尾服と共に大変親しまれている野鳥である。そして、手の届きそうな軒先や日覆いに巣を作るかと思えば、高層マンションの地下駐車場にも巣を作っている。それだけ人間を信頼しているのであろう。
世界鳥類和名辞典によれば、世界に分布するツバメ科の鳥は七六種、北極や南極のような極地を除く地球上のあらゆる地域に分布し、温帯および亜寒帯に分布しているものは渡りをする。 特に北半球に分布しているツバメは長距離の渡りをすることが知られている。しかし、熱帯産や南半球に分布しているツバメは殆ど移動しないと言われているが、一部留鳥もいるらしい。
ツバメ類の一番の特徴は、昔の特急列車に「ハト」や「ツバメ」の名称が使われているように速いものの代表として知られている。蛇足ではあるが、最近の特急列車では「やまびこ」、「こだま」「ひかり」のように鳥から速度のより速いものの名前が付けられている。
ツバメ類は非常に高度な飛行技術を身につけており、ハトやメジロなどが含まれるスズメ目の鳥の中では、アマツバメ目に次ぐ空中生活者である。
体型は流線型で軽い体、長く尖った強力な翼、小さくて弱い足そして短く扁平であるが開くととても広い嘴等がそれを物語っている。
日本では普通のツバメは都市に多く、イワツバメやアマツバメ類は地方に多いという傾向がある。ヨーロッパではこれが逆転している。日本では地方ほど険しい山地が多く、その上空はイワツバメやアマツバメの絶好の餌場となっている。しかしヨーロッパではアルプスより北の地方では比較的平坦な土地である。そしてイワツバメやアマツバメなどが営巣するのに適当な建物が都市に集中している。
逆にツバメの好む家屋は農村の方が多い傾向がある。多分こんな習性から田舎のツバメ Hirundo rustica という学名をいただいたのかもしれない。
ツバメは「土食み」の意味か
ツバメは古来ツバクラメと呼ばれ、これが略されてツバクラ、さらにツバメとなったものである。「動物名の由来」によれば「日本釈名」には「ツバメは土を食みて巣を作る。土食みなり」としている。ツチバミのチが略されてミがメに転じたものであるという。「和訓栞」には「ツバクラメは土食う魔女の義」とでている。これらの解釈のようにツバメの名の由来は「土くらひ」あるいは「土食み」の転であると思える。ツバメが土を啄んで運び巣を作る習性によるところから名付けられたものであろう。
ツバメの声は
ツバメの地鳴きは、ツピーまたはツキーというふうに聞こえますが、囀りはとても複雑です。バードウォッチャーはいろいろな鳥の囀りの声を覚えるのに「聞きなし」をする。
聞きなしとは、各種の野鳥が囀る声を何かに譬えて覚えやすくする方法である。カッコウやカラスなどはその声を聞けば誰でもすぐに名前がわかることでしょう。しかし何十種類もの鳥を一度に覚えて聞き分けようとしても、聞き分けられるものではありません。そこでその鳥の鳴き声の特徴をとらえて人の言葉に直す訳です。その聞きなしをツバメに当てはめてみると「土食うて虫食うて渋い」つまり、巣を作るために土を口にくわえているところが土を食べているように見えるところから土を食べて、虫を食べて口の中が渋いということで、ちょっと語呂合わせは悪いが、ツバメの生態をよく観察して作られている。
実際のツバメの囀りは、ピチュ、ピチュ、ピチュピリリリリ等と聞こえます。
ツバメはラテン語でヒルンド(Hirundo rustica)というが、Hirundoは学名の属名にもなっている。英名はスワロウ(Swallow)、フランス名はインロデン(hirondelle)、ドイツ名はシュバルベ(die Schwalbe)という。
スカンジナビアの伝説に、ツバメはキリストが十字架にかけられたとき、その上空をスワラ、スワラと鳴きながら飛び回ったのでスワロウと呼ばれるようになったのだという。
また、インドの伝説では、釈迦の臨終にスズメがいち早く駆けつけてきたが、ツバメは化粧して出かけたので間に合わなかった。それでスズメは五穀を食べることを許されたが、ツバメは罰として虫しか食べてはいけないとされたという話もある。
日本で見られるツバメの仲間には、普通のツバメの他に北海道の崖地に穴を掘って棲むショウドウツバメ、最近東京や埼玉県などで市街地に進出し、都市型鳥類の仲間入りしたイワツバメ、関東地方の暖かい土地から関西より西の方に多いコシアカツバメ、沖縄本島などに生息するリュウキュウツバメの五種類が知られている。
鳩ヶ谷市のツバメ
埼玉県では毎年三月十日から十一日頃にツバメの初認が報告されている。しかしその報告の殆どは。河川沿いの記録である。市街地での観察例となると十日程遅れてみることが出来る。鳩ヶ谷市での観察記録もほぼ同様である。
一九六〇年代に入り、鳩ヶ谷市内から徐々に権現山や諏訪山あるいは法性寺などの雑木林が消失し、それと共に耕地整理で整備された区画に住宅が次々と建設され、それまで水田や畑であった地域でも新たに住宅開発が行われることによって市内の緑が減少し、オオムラサキを初めとするいろいろな生物も減少し始めた。このような環境の変化と野鳥とがどのような関わり合いを持っているか、ということに興味を持ち市内のツバメの営巣調査を開始した。調査の時期はツバメが渡来し、営巣を始めて安定してきた時期の五月中旬から二番子が巣立つ七月中旬頃の間に市内全域を歩いて、営巣数と位置を記録し、地図上に示すと共に可能な限りの情報を記入してあるいた。調査は一九七三年から一九八五年までと一九九五年から二〇〇四年までの二三年間に亘って、市内に生息するツバメの営巣数の調査を行ってきた。
ツバメの巣があった場所は、旧一二二号線ならびに蕨・草加線沿いの商店街に認められた。一九七三年当時は市域全体でツバメの巣は三八巣あったが、年々少しずつ営巣数が増加していきました。この頃はまだ旧日光御成街道を中心とした昔ながらの商店街の店舗が多く存在していましたが、ツバメの巣は一九八〇年に一時減少しました。この原因は商店街が今までの店舗を現代風の店舗に改装し始めた事による影響が大きく、また、時期を同じくして東京都内のツバメの営巣数が減少し、周辺地域へのドウナツ化現象に伴い一九八五年まで増加し、最大百十六巣にまでなりました。
卵から孵った雛の数は一巣当たり三羽が約二十二%、四羽が三十三%、五羽が二十八%という感じで、三羽~五羽程度が普通でした。そして、実際に無事に巣立ちをしたのは孵った雛の内七十%程でした。
百十六の巣があったということは少なくとも約二百四十羽の親ツバメがいて、それぞれの巣で三羽の雛が巣立ったと考えると、約七百二十羽以上のツバメが生活できる環境が鳩ヶ谷市内にはあったのです。つまり、七百二十羽のツバメが一夏の間生活できるだけの豊富な昆虫類が鳩ヶ谷に生息していたのです。この頃は一軒の軒に五巣も造ったところがありました。その後年々、水田や畑地などの農地が減少し、それに伴いツバメの営巣数も激減しました。一九九五年以降はグラフに示すように三十年前に比べ農地が九十%消失しました。
㊤餌を持ってきた親と4匹の雛 ㊦保護されたツバメの雛
二十数年前、東京からのツバメのドウナツ化減少が起き、十年前には鳩ヶ谷市内でも同じようにドウナツ化現象がおきたのです。実はその五年ほど前に、川口市内でも市中心部から市の郊外へと営巣の中心部が移動していました、鳩ヶ谷市でも五年以上前にその現象が少しずつ現れ、今では本町商店街~桜町と里地区に毎年五~六巣程度の巣が見つかる程度に減少してしまいました。そして、折角繁殖しても、カラスやヘビに襲われ殆どが巣立つことなく、親ツバメは南の国へ帰っていきます。このように現在ツバメにとって住みにくい鳩ヶ谷、人間にとってはどうでしょうか。
営巣場所
昔からツバメが営巣すると店が繁盛するという言い伝えがあるが、営巣場所を職業別に見ると、飲食店が一番多く約三三%、次いで一般民家で一〇%、公民館などの公共施設及びその他の店舗が各七%であった。同様な調査を川口市内で行った結果、飲食店が五六%、民家および洋品店が一〇%であった。
ツバメの営巣数が増加した一つの原因として、商店数の変化が関連している可能性を考えて調べたところ、一九七四年の市内の商店総件数は六九七店であった。そのうち飲食店の占める割合は、約一七%(一一四店)、一二年後の一九九〇年には一〇四〇店で飲食店は約二二%(二二七店)であり、比率で見ると商店数は約一、五倍、飲食店は二倍に増加している。従って、ツバメが利用する飲食店の利用率が約三四%という数値も納得できる。
営巣場所の建造物の階数に基づく選択
鳩ヶ谷市でツバメが利用する建物は、その殆どが一階か二階建ての家屋または店舗であった。例えば、一九八四年度は総営巣数一一六巣のうち一階に営巣しているもの三七軒四一巣(約三六%)、二階に営巣したもの五〇軒七五巣(約六五%)であり、二階に営巣している巣の方が多かった。
関東地方において同様の調査(一九八四年、仲真)を行った例では、千葉県天津小湊、神奈川県の国府津、松田、秦野の四地区で比較したところ、天津小湊、国府津、松田では一階の営巣率七〇%から八〇%で、二階や三階に比べて一階を選択していたが、秦野では一階と二階で殆ど差がなかったと報告している。
一方、二〇〇四年に全国で行われたツバメの調査では、一階建てが約九〇%、二階建てが九%、三階建て一%と報告しているが、鳩ヶ谷市の場合、二階の営巣数が多い理由として、(1)以前は、平屋であった商店街が軒並み二階建てに改築したこと、(2)二階は人の居住区として道路に面した側に窓があり庇がついて営巣しやすいこと、(3)一階は殆どの商店街が日除けの深い枠組みの屋根をつけており営巣しにくいこと、(4)夜は殆どの商店が店のシャッターを下ろすため、一階の軒に直接営巣しにくいこと、等があげられる。
一般的にツバメが巣を造る共通性として、人や車の出入りが多く通行人が絶えず行き来している通りや出入り口、車が夜遅くまで出入りしている駐車場やガソリンスタンドなどがあげられる。特にガソリンスタンドの蛍光灯に設置された笠の上などに営巣する傾向がある。特異な場所に営巣した例としては、見沼用水に架かっている吹上橋の裏側に営巣したもので水位が低い時はよいが、水田に水を引き入れるため水位が上昇してきた時は、巣の底が洗われる様な状態となり、親ツバメが巣への出入りに苦労していたように見えたのは考えすぎであろうか?
農耕地の変化
ツバメの生活する環境として営巣、育雛する為の建造物と巣の材料(泥と枯れ草)の採取場所および育雛するために必要な餌生物(主にトンボやガガンボ等の昆虫類)を確保できる場所が必要である。調査を開始した当時は、鳩ヶ谷市内でも水田や畑地等の農耕地がかなり存在していた。一九六三年当時は農耕地の総面積二六一九一アールであった。しかし年々減少し、一九八一年には六三五一アール(約二四%)となり、二〇年前に比べると五分の一以下になっている。これらの農耕地は殆どが市の南部地域に存在していたが、宅地化されて消失してしまった。それでも、宿場町として栄えた本町商店街がある旧市街地を中心にツバメの営巣が増加した。その理由として、安行・赤山地区などの植木畑や水田があり、見沼用水が流れている事により、巣材と餌となる昆虫類の確保が容易であった事が増加の原因と考えられる。この推測を裏付ける一例として、都市鳥研究会が一九八四年に行ったツバメの皇居周辺での営巣調査結果を見ると、皇居の周辺にはツバメの巣が多く、その理由として皇居は緑と土と水といった自然が豊富で、餌や巣材が入手しやすいことを挙げている。例えば、鳩ヶ谷市においてもトンボ公園があった里小学校の校舎には、一九九七年からツバメが営巣し、年により二巣または三巣を作って雛を育てていましたが、
二〇〇三年からはツバメが飛来しませんでした。その年の八月に、区画整理の名の下にトンボ公園が埋め立てられると共に、宅地化されました。このように、ツバメは環境の変化に敏感であり、常に豊かな自然環境を必要としています。
人間の住みやすい環境とツバメの営巣数について
一九八五年四月一日の朝日新聞の記事によれば、埼玉県南部の緑被率(緑に覆われた土地の面積の割合)は四一.七%で県が限界と見ている四〇%に近い値を示している(昭和五四年撮影のデータ)。この調査は、二五メートル以上の樹木から、草地、農地まで県土をどれだけ緑が覆っているかをつかむものである。鳩ヶ谷市の近隣市町村について緑被率の割合を見ると蕨市が一四.七%、与野市が二五.三%、鳩ヶ谷市三一.五%、草加市三九.三%であり、鳩ヶ谷市は埼玉県のワースト三に入っている。更に、一九九五年に作成された鳩ヶ谷市緑の基本計画によれば緑被率は約一七%となる。つまり、市の面積六二二ヘクタールに対して一〇四ヘクタールとなり、一〇年前よりも半減したのである。つまり人口の密集する県南地域は緑に乏しいことを示している。そこで、昭和五三年から五五年までの三年間の鳩ヶ谷市の地域別、公害苦情の実体についての分布とツバメの営巣数とを比べてみると、市民が住みやすいと思っている地域では、ツバメの営巣数が多く、住みにくいと思っている地域はツバメの営巣数が減少していることは、非常に興味深い。ツバメは、人間との関わりも多く、人間の親しい友人として、又、環境指標鳥として温かく見守っていく必要がある。
特にここ数年は、古くからの老舗である店舗が消失し、その代わりに鳩ヶ谷市には見られなかった高層マンションの進出がめざましく、鳩ヶ谷市の目抜き通りの街並みも日に日に変化している。
古来より親しまれてきたツバメが鳩ヶ谷市内から見られなくなる日が来ることはそう遠くないことであろう。
ツバメ去る
帰るツバメは木の葉のお船で
波にゆられりゃ、お船はゆれるね
さ、ゆれるね
これは、野口雨情作詞の童謡である。年輩の方はご存じでしょう。
ツバメが木の葉のお船に乗って、南の国へ帰っていくという、とても夢のある歌です。実際、何十万、何百万羽かはわからないが日本全国で繁殖したツバメが南の国へ帰るのであるから、そのうち何羽かは木の葉のお船でなくとも大洋に浮かぶ浮遊物(流木や発砲スチロールなど)に止まって体を休めるツバメもいるであろう。筆者の経験では、アジサシ、コアジサシ、クロハラアジサシなどが流木や発砲スチロールに乗って波間を漂っているのを見たことがある。また、海上を航行している大型客船などの甲板でも小鳥達が体を休めているところをよく観察する。以前、八月の苫小牧航路や釧路港路などの北海道行きのフェリーで海鳥の観察をしていると、南下途中のツバメが甲板に止まることが良くあった。
小さな体で、何千キロもの渡りをするのであるから羽を休める木の葉のお船も必要であろう。
以前、川口市の木曽呂地区でカラスの塒の調査をしていたところ、送電線にツバメがずらりと並んでいた。折悪しくその日はカメラを持っていなかったため、写すことが出来なかった。 あの壮観な光景を一枚と思って翌日出かけたが、あのツバメの大群はどこへいったのかウソのように消えており、がっかりしたことがある。このツバメ達が私達の前からある日突然姿を消すのは彼らにとっては、急でも突然でもない。しかし、ツバメが身の回りからいなくなったことに気づいた人々は急にツバメがいなくなったと感ずる。
決まった時期に見られる渡り鳥のこうした顕著な群の移動は、神代の昔から人間にとって限りなく驚異的、かつ興味のある現象であった。渡り鳥は毎年決まった時期に姿を現し、去っていく。そして年々歳々これを繰り返す。
渡り鳥はなぜこんな行動を繰り返すのであろうか。また、どこから来てどこへ行くのか。多くの人々が渡り鳥に対してこんな疑問を抱いてその謎解きに挑戦した。
今でこそツバメは秋になると寒い冬を越すために南の国へ帰ると言うことを誰でも知っている。でも昔の人たちがツバメはどこへ行ったのだろうと考え、このことは昔から大変不思議なことだとされていた。例えば、「ツバメは冬になると枯れ木の洞に隠れて冬を過ごすのだ」と言われていた。
中国では、昔「ツバメは秋になると土の中に入って春まで出てこない」等と言われているという話を聞いたことがある。
これらはいずれもはっきり見たり聞いたりして調べた結果ではなく、ツバメが春どこからかやってきて秋になると急に姿を消してしまうから不思議でたまらない人が作りだした話であろう。しかし、このような話ができると言うことはそれだけ人々がツバメに対して親しみを持っているからであろう。
私達は、ともすれば自分の生活や学校の勉強などで忙しく、ツバメがいつ来ようと全く平気で過ごしてしまい、季節の移ろいも感じなくなってしまうであろう。
ツバメが秋になるとどこへ行くのであろうと思うのは素朴な疑問であり、こう言った疑問が世界中で鳥の足に足輪を付けて放鳥し、また捕らえ、どのようなコースを通って渡りをしているのかを調べる、標識調査が行われる所以となったのである。
この標識調査(バンディング)の結果によると、本州で標識して放鳥したツバメが沖縄、台湾、フイリッピンそしてマレーシア半島南部などで回収されている。
逆に、台湾で捕獲されて標識されたツバメが日本で多数回収された。また、タイで標識されたツバメが朝鮮半島やシベリア、沿海州などで多数回収されているけれども、日本ではまだ一度も回収されたことがない。
そこで、日本で繁殖するツバメは、沖縄からフイリッピンそしてマレー半島という経路をとって渡る。また、これとは別に韓国やシベリア東部、沿海州などで繁殖するツバメは、中国大陸沿いのコースを経由してタイやマレーシアなどに行って越冬することがわかってきている。{吉井正(一九七九)「渡り鳥」(東海大学出版会)}
これを裏付けるような話がある。
ある週刊誌が、バンコク市内でのツバメの集団塒の様子をカラー写真入りで紹介していた。
真っ赤な夕焼けの空を背景に、多数のツバメが乱舞している(週刊朝日、一九八八年五月二十七日)。バンコクで越冬しているツバメが、果たして日本生まれのツバメかどうか興味にあるところだが、山階鳥類研究所の吉井正氏の研究によると、標識調査の結果バンコクで標識をつけたツバメは、朝鮮半島やシベリアで発見されているが、日本では一羽も見つかっていないという。(吉井正一九九〇年)「日本・台湾・タイで放鳥した標識ツバメの回収報告」(山階鳥研ニュース二)長い渡りは骨が折れて危険な仕事である。悪天候は、しばしば大量の死につながる。
小鳥は一晩の渡り航行で、体内の脂肪の蓄えを殆ど消費してしまう。運悪く強風が吹いたりすると力尽きて死ぬ危険がある。
大洋を航行する船の周りを飛ぶ小さな渡り鳥は大抵危険な状態にある。春の渡りの際にもう一つの危険は早く着きすぎると、繁殖地がまだ雪の下だったり、餌が得られなかったりすることがある。
特にツバメのように虫を餌とする鳥は、北の国へ到着したばかりの時や、南の国へ帰る途中で寒さや雨が続くと落鳥しやすい。彼らは、餌がないと飢え死にしてしまう。嘴や消化器官が昆虫専用に出来ているので、危急の場合にも植物の種子などを食べて飢えをしのぐわけには行かないので、生きてゆくことが出来ないのであろう。
野外生態研究家の仁部富之助は著書「野鳥の生態」で、「夜ごと霜をおき、しばしば気候激変して、ときならぬ降雪を見、吹雪をとばすような地方では、彼らの帰還後の生活は決して絶対安全とは言えない。だが、寒がりやの彼らは、このような危険な時期に渡ってきても、比較的暖かで寒さしのぎに都合の良い人家にすぐ入らずに、しばらくの間は野外生活をする。そして、いよいよ家屋を訪れ、古巣に寄るのは四月中旬で、彼らの先駆者が現れてから、かれこれ二週間である」と詳細な観察記録を記載している。
ツバメにとって、適当に季節を見計らわないと、長距離の渡りは自殺行為にもなりかねない。このように、小さなツバメにとっては渡りという長距離飛行は命がけなのである。前述したようにツバメが命がけで海を往復してきても、鳩ヶ谷市内に生活する場所がなくなるということは大変残念なことである。