縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第62号 平成20年12月8日
鳩ヶ谷の生物九
田んぼの忍者「タシギ」とその仲間
藤波不二雄
タシギは夏期サハリン北部・カムチャッカ・ウスリー・シベリア等の極東地域で繁殖し、冬期はインド・マレーシア・フイリピン等に渡って越冬することが知られています。日本では主に春と秋の渡りの頃に開けた水田や湿地などでよく観察されます。また、冬期は積雪の比較的少ない各地の水田や蓮田あるいは沼沢地などで越冬し、多くの図鑑では、渡り鳥、または冬鳥と記載されています。
タシギは一般的にジシギと呼ばれる鴫の仲間で、ジシギは漢字で地鴫と書き、地上性の鴫と言うことからヂシギとすべきではないかという考え方もあるようです。
ジシギの英名Snipe(s)はジシギ類の長い嘴に由来し、長い嘴で餌をはさみ採るものという意味です。
タシギ(Gallinago gallinago)は、その名が示すとおり水田や休耕田あるいは河川敷といった環境に広く生息します。学名のGallinagoは「ニワトリの雌に似たもの」を意味しています。タシギの語源は、狙撃(Sniping)、タシギ猟からきた語源といわれていますが、タシギ猟とは、袋状の網を五、六枚田圃に並べて張っておいて、タシギが直線的に飛び立つ性質を利用して網の中に飛び込んだところを捕らえる猟です。
似たもの同士:タシギ類4種
タシギ チュウジシギ
オオシギ ハリオシギ
一般的に知られているシギとは飛んだ時の羽音が賑やかなので「騒ぎ」に由来するといわれています。中国では、扇尾沙錐(田鴫)と言う漢字名が当てられていますが、これは恐らく英名のFantail Snipeを直訳したものと思われますが、現在のタシギの英名はCommon Snipeです。 奈良時代には種類を区別せずシギ類は「シギ」の名で知られていましたが、江戸時代中期から区別して「タシギ」と呼ばれるようになりました。また、タシギとヤマシギは区別されず「ボトシギ」とも呼ばれていました。
「春まけて物悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田に住む」これは天平勝宝二年、越中守として任地にあった大伴家持の歌です。この時代は現代と異なり双眼鏡や望遠鏡がなく図鑑なども無かったので、ここで詠われている鴫がタシギであると言うことは、はっきりとはわかりませんが時期的および環境的に見てタシギの可能性が高いと思われます。
大磯に鴫立庵という俳諧道場があります。鎌倉時代の有名な歌人・西行法師が、「こころなき 身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」という和歌をこの地で詠んだと言われています。江戸時代初期に、崇雪という俳人が、西行を慕って大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建て、その後これが鴫立庵と呼ばれました。
タシギは地味で目立たないことから、俳句や短歌などで、詠われることが少ないようです。
転機すぎたる後をいちはやく田鴫あされり姿勢水平に
この歌は愛知県に住む友人、伊豫田博氏の歌集「鶺鴒のうた」から引用したものです。春早く耕転機を使って田を耕して土の中から出てくるミミズなどの餌をとるタシギの様子がよく詠われています。
冬の水田や湿地の土のあちらこちらに、いくつもの小さな小穴が開けられているのを見ることがありますが、これはタシギが長い嘴を地中に差し込んで各種の小動物を探した痕跡です。タシギの嘴は採食に適応して、他のシギ類と同様に上嘴を先端から数㌢のところで上方に曲げられるので先の方が柔軟性に富んでいて、嘴を根元まで地中に突き刺したままで先の方を押し広げて餌をくわえ採る事も出来ます。また、水中で嘴を動かして水底に潜んでいる小動物をさぐりだしたりもします。これは、上嘴と下嘴の先端付近にヘルペスト小体と呼ばれる触覚器があり、嘴の先端を動かして地中の獲物を探り当てることが出来ます。
枯れ草と見まごうごとく身を潜め
タシギが憩う見沼辺の秋
ジェッと鳴き畦の端より飛びたちて
夕焼け空にタシギ舞いたり
筆者
タシギはその習性上、いつも物陰に隠れている性質が強く潜んでいるものを見つけることが難しい事もあって正確な数を把握することが難しい。従って、潜んでいるものが飛び立つ時に数を数えるのが一番良い方法です。
タシギは、飛び立つ時にジェッ、ジェッという短い声を発することが多く、ディスプレイの時には、チャク、チャクと言うような声やヤギのような声を発することもあると言われていますが筆者はまだ聞いた事はありません。
タシギの渡来数の変化
ジシギ類はヨーロッパ、ロシア、北アメリカ、アジアをはじめ、多くの国で狩猟対象となっています。日本でもタシギは現在も主要な狩猟鳥の一種です。
日本の狩猟登録者によるタシギの狩猟数は、環境省の狩猟統計記録に寄れば一九八〇年に九万二千百六十三羽、一九九九年には一万八百九十七羽です。二十年間で約十分の一に減少しています。この様な個体数の減少は、狩猟者が高齢化し狩猟人口が以前に比べ減少したこともありますが、一番大きな原因は全国的に水田や休耕田が消失し、渡り鳥であるタシギの休息・採餌場所および越冬場所が減少したことです。
日本を春と秋に通過するシギ・チドリ類は湿地の減少と共にその個体数は大きく減少しました。干潟で採食する種の個体数の変遷は、日本野鳥の会などの保護団体が実施する全国的な調
タシギの渡来数の変化(川口市安行)
査により把握されています。しかし、湿地や水田などに渡来するジシギ類の個体数は正確には把握されていません。筆者は、タシギの個体数の変化と環境の変化を調べる目的で、鳩ヶ谷市内で調査を行う予定でしたが里地区から三ツ和・八幡木にかけて存在した多くの水田が宅地化されてしまいましたので、やむなく安行の休耕田で調査を行いました。調査期間は一九七四年から一九八三年までの十年間で百七十一回の観察を行いました。調査場所は、安行領家の興禅院や花と緑の振興センター(旧埼玉県植物見本園)などがある斜面林と伝右川に挟まれた低地の新田・安行領家・中道北・安行吉蔵などに亘る地域で、現在は安行植物取引センターや川口緑化センター(道の駅樹里安)がある地域です。調査開始時は周辺に広がる約二百五十㌶の水田と約三㌶の葦原の間に小規模ながら水を張った小池が散在(一九七四年)していました。
この地域は一九七四年頃まで水田が広がり、タシギは水田および湿地の浅い水面や畦などで、採餌や休息をしていました。一九七五年から水田が放置され休耕田が増加しました。この時期はタシギの数も毎回五羽から十羽程度でした。水田であった場所が休耕田や葦原に改変し、その地域が広がり始めた一九七九年四月以降は五十羽を記録しました。さらに、一九八〇年三月から五月はじめにかけて九十羽前後を記録しました。そして、八月から十月の秋の渡りに八十羽から百羽、一九八一年四月には百二十羽を数えました。この年の春は、タシギの仲間のオオジシギ・チュウジシギ・ハリオシギ等が同時に観察されました。ところが、五月以降に小学校の建設工事のための埋め立てが始まりました。
年月の経過と共に、青果市場や運動公園等の施設ができはじめ、一九八〇年には高速道路のモデル道路が調査地の中央部に建設されました。その頃から急激に宅地造成が進行し一九八三年には完全に埋め立てが終了し、湿地が消失しました。それに伴い一九八二年三月にはタシギの姿を見つけることは出来ませんでした。
タシギの仲間
タシギの仲間は世界で記録のある種類は一六種類です。
日本では、タシギ、ハリオシギ、チュウジシギ、オオジシギ、アオシギの五種類、その他に近縁のヤマシギ、アマミヤマシギおよびコシギが記録されています。このうちオオジシギは夏鳥として、ハリオシギとチュウジシギは旅鳥、タシギは旅鳥または冬鳥として渡来します。いずれも足が短めで、ヒヨドリくらいの大きさの鳥です。頭が大きめで太った感じの体に短い尾、長くまっすぐな嘴を持っています。そして、目が顔のかなり後上方に位置しています。このために視野がとても広く後方からの外敵に対して適応しているようです。全体に褐色の羽毛をもち、細かな濃淡の斑紋やすじが入った複雑な模様をしているところから枯草などの中にいると見えにくい保護色となっています。
四種類共に酷似していて識別がきわめて難しく、その上隠遁性の高い羽衣でカムフラージュしています。したがって、人や犬などが近づきすぎた時に驚いて飛び立って、初めて目にすることが多いのです。足元から飛び立って驚くこともあるくらい飛びたちは突然で、ジグザクに飛び立った後は再び降りるまではかなり遠くに逃げる性質があるので、世界各地でハンターの動く標的とされています。
ジシギ類の識別点は色々ありますが、決定的な識別点は尾羽の枚数や鳴き声などで、後は相対的な識別点を基準に推測することになりますが、この様な難しい識別点を元に、二〇〇六年の秋に、鳩ヶ谷市を中心とした県南部におけるジシギ類の渡りの変化を調査しました。
埼玉県南部を中心としたジシギ類3種の秋の渡り状況
その結果、一番大型であるオオジシギの渡りは、七月二十日に最初に記録した後、八月中旬より増加し、九月中旬が最大となり、十月十九日までの約三か月間に亘って通過していることが解りました。
次ぎに大型のチュウジシギでは、オオジシギよりも二十日遅く八月十日に最初の個体が観察され、九月七日から十四日頃にピークとなり、最終は九月二十七日で約一ヶ月半に亘って通過していました。
ハリオシギは、八月三十一日に最初に記録され、十月十二日まで観察されましたが、他の二種に比べ個体数はかなり少ないものでした。これら三種のジシギ類の渡り状況から、関東地方で十一月以降に観察されるジシギ類は、殆どがタシギである可能性が高いようです。タシギは冬の間、関東周辺の水田や湿地などで、少なからず越冬していますので、冬に見るジシギ類もタシギが殆どと思われます。
沖縄地方ではハリオシギの越冬が記録されています。
雷鴫(かみなりしぎ)
オオジシギ羽音ひびかせ急降下
湖面の霧も晴れよとばかりに
月岡 義明
と詠われているように、オオジシギは繁殖地や移動途中でも、やや小声でガッガッガッと鳴きながら、ひらひらと柔らかく羽ばたいては翼を休めて、また同じ動作を繰り返しながら飛んでいます。そのうち、突然に急降下し、その際にズビヤーク、ズビヤークという大きな声で鳴き、扇形に広げた尾羽が風を切ってザザザザーという異様な音が生じます。そして、ガッガッガッガー、ズビヤーク、ズビヤーク、ザザザザーという一連の音が終わった時には、かなり低いところまで降りています。この様なディスプレイを行うためにオオジシギは古くから雷鴫と呼ばれています。
ズビヤーク、ズビヤークという「囀り」は、高木の頂きや草地の高台などでも行うことがあります。
日本では聞くことが出来ませんが同じ仲間のチュウジシギやタシギなども繁殖地では似たような行動を行うことが知られています。ロシアの鳥類学者であるV・A・ネチャエフの観察記録に寄ると、タシギはサハリンでは少数が繁殖し、そのディスプレイは円を描いて、または直線状に上昇し、チャクチャクチャクという声で鳴き、それからヤギのような声で鳴きながら高度を下げて、その後上昇、といったディスプレイ飛翔を繰り返すことを報告しています。オオジシギと異なり、タシギの「囀り」は小さく「ヤギのような声」は長くはないようです。
鳩ヶ谷市内のタシギ
鳩ヶ谷市では一九五三年に市内全域が都市計画法の指定を受け、一九六〇年頃から市街地開発のための土地区画整理事業が始まりました。この市街化開発によって二六一㌶あった農地は宅地化を中心とした用地に転用され、既に九割以上の水田や湿地が消失してしまいました。「土地も国土の一部である」という考え方が市政になく、東京近郊にあるという地理的環境により、一時的な地価の高騰などの影響により、見沼代用水や旧入間川によって潤されていた鳩ヶ谷市の水田や休耕田が消失してしまいました。
鳩ヶ谷市内でタシギが確認されたのは、一九九九年十二月二十四日にトンボ公園で記録されたのが一番新しい記録です。それ以後、十年近く記録がありません。トンボ公園では、その年の九月頃からタシギが現れて数か月間滞在しました。トンボ公園のような狭い環境でも、タシギにとっては良い生息環境でした。しかし、二〇〇三年八月に区画整理の名の下にトンボ公園は埋め立てられ湿地は消失し宅地化されました。現在、市内で唯一と言って良いほど水田環境が残っているのは、辻バス停前の水田です。問題はタシギが越冬する時期に東縁見沼代用水からの通水がないために水田が乾燥することです。乾燥した水田では採餌をする事が出来ないため生息することが出来ません。
全国的な農地の減少と共に、機械化された農業形態に伴い渡り鳥の休息地が減少して行くのは大変残念な事です。
参考文献
1 大日本猟友会(二〇〇六)『狩猟読本』
2 藤波不二雄(一九八八)タシギの観察記録・兵庫野鳥の
会会報『鳥と自然』第五十号
3 伊豫田博(一九九二)『鶺鴒のうた』・短歌新聞社
4 新浜倶楽部(一九七二)ジシギ類四種の野外識別につい
て、『野鳥』通巻三一五号
5 V・A・ネチャエフ(一九九五)『サハリンの鳥類1・
極東の鳥類』藤巻裕蔵訳・極東鳥類研究会