縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第№68号 平成23年11月18日
鳩ヶ谷の池と湧き水 藤波 不二雄
鳩ヶ谷市内の地形に関しては改めていうまでもありませんが東縁見沼代用水(以下、用水)を境にして、概ね大宮大地と荒川低地とに別れており、用水より南部に低地が広がり、市域の約八割を占めています。
この低地は荒川に沿って広がる荒川低地に属するもので、南は東京低地に連なる大規模な低地の一部です。
低地の中でも一段と低い土地が、市域の東西を蛇行するように貫いていますが、これは荒川の旧流路の一つ入間川が流れた跡です。それに沿って、低地の中でもいくらか高い、自然堤防と呼ばれる微高地が広がっています。そして、低地には田や畑が営まれ、穀倉地帯を形成していました。見渡す限りに広がる田畑の中に、屋敷林に囲まれた人家が島のように点在する風景が昭和三十年代まで続いていました。
江戸時代には、これらの低地帯、特に入間川の流路跡地は広大な湿地帯であったであろうことが小渕村濫觴記などの文献より推察され、さらに湿地帯には多くの池や沼が存在していたものと考えられます。
昭和九年に纏められた鳩ヶ谷小学校の「事実問題構成資料算術研究部」(矢作吉蔵氏所蔵)の資料によれば、昭和初期には鳩ヶ谷市内に七つの池(貯水池を含む)が存在していました。そして、昭和四十年代初期には法性寺池、弁天池、風至池、変電所池の四箇所となり、現在はすべての池が消失しました。これらの池の多くは水田への貯水池としての役割を担っていましたが、区画整理に伴う影響で駐車場や住宅地となりました。
既に市内から消失してしまった七箇所の池と「表(鳩ヶ谷町の池)」には記載されていない小さな池を含め著者の記憶の範囲で記録にとどめたいと思います。
弁天池と「ドイ」
一九六〇年代初期まで鳩ヶ谷中央病院北側(桜町二~六丁目)の谷あいには、水量豊富な湧水池がいくつかありましたが現在は宅地化されて枯渇しています。そのうちの一つに、鳩ヶ谷福音教会東側には十㍍四方ほどの広さの弁天池があり、周辺農地の水源となっていました。池の脇にあった弁財天信仰の石造物(市の文化財指定)が今も残されており、往時を忍ぶことができます。現在の弁天池跡地の場所に小さな池があったかどうか定かではありませんが、道路の反対側に十メートル四方程の池があり、池の端の一角に現在残されている石像物がありました。池があった当時は池の北側に水田があり、水田に続く農地の奥に大きな農家がありました。
弁天池より安行慈林薬師寺の社寺林までの間は大龍寺山と権現山に挟まれた谷津田で摘田という独特の稲作が行われていました。田舟を使わなくてはならないほどの深さの水田でした。そして、弁天池はこの地域の灌漑用水として貴重なもので水田に水を供給するための神聖な場所として村人の崇敬を受けており、前述した信仰に関わる石碑が二点残されています。池跡と石碑は民族的かつ歴史的な価値があるとして二〇一〇年十月に市の史跡に指定されました。
この谷津田には大龍寺山から数本の湧き水が流出しており、ドイと呼ばれる細い流れが水田を経由して江川に注ぎ込んでいました。湧き水が出ている付近は幅一㍍から三㍍、長さは五㍍から十㍍ほどの池状になっていました。この池から江川への流入路が「春の小川」の雰囲気をつくっており、メダカ・ドジョウはもちろん今では絶滅してしまったミズカマキリやタイコウチなどの貴重な水生生物の生息場所でもありました。このような場所は三カ所ありましたが、そのうちの一つは流れのない円形状の深い泥沼になっており、ライギョ・ウナギ・ナマズなどが生息していました。
権現山下にも同じような小さな池がありました。位置的にはコンフォール東鳩ヶ谷の敷地脇にある鳩ヶ谷東公団バス発着所より東側の坂を下りきった左側です。当時、この道は一m幅程度の林道で、バス発着所付近に貝塚がありました。池の大きさは二m×五m程度で流れは水田沿いに江川へと流入していました。
龍神池(通称・りゅうじん池)
鳩ヶ谷中央病院南側(桜町六丁目十四)にあった正式な池の名称は風至池ではないかと思われますが、通称は龍神池と呼ばれ、池の中央の小島には祠が祀られていました。東側には井田養鶏場があり、その周りは苗木畑でした。龍神池へは大龍寺山からの湧き水が流入し、池があった南側には現在も流れている三光稲荷からの湧き水が流れており、江川へと注いでいます。この池は夏にはかなりの水量がありましたが、冬になると水量が減少しサギ類の足が水底に着くほどの深さまで浅くなりましたので、近所の子供達にとってはよい遊び場になっていました。
龍神池の上流、現在の桜町六丁目十番地付近にも、湧き水の出ている小さなドイ状の池があり、この池から流れた水は水田を通って三光稲荷からの湧き水と合流して、今でも清涼な湧き水が流れています。また、鳩ヶ谷市域ではありませんが江川を渡って約五十㍍ほど行くと安行慈林薬師寺からの道と交叉しますが、右側に竜頭の池があります。この道は古くは薬師寺の参道でしたので薬師寺に所属しており、この池だけは現在も保存されています。
浅間池(通称・せんげん池)
坂下町二丁目の用水に架かる浅間橋の南側には浅間山(ガーデンシテイ)があり、東側はなだらかな丘陵状になっている畑地でしたが、見た目には前方後円墳のような形をしていました。そして、用水沿いに暗い杉林に囲まれた浅間池(通称名)がありました。大きさは約六m×八mくらいの池で、何となく暗い感じのする池で子供達もあまり近づきませんでした。池の周りには約三十㌢幅の細い道があり、丘陵へと続いていました。
丘陵は殆どが畑地となっていましたが、丘陵の西側はえぐられたような形で浅間山へと続いていました。南側は斜面林となっており、アカマツを主とした林で一部ハリエンジュやエノキなどの落葉樹が生育していました。斜面林と水田との間の林道には春になるとアマナというユリ科の植物が薄いピンクの花を咲かせていました。鳩ヶ谷市内でもこの地域のみで生育していたようです。また、西南側には荒川工業という会社の工場空き地があり広い草地になっていましたが、そこではカワラケツメイというマメ科の植物群落がありました。宅地開発に伴い池を含めた丘陵地は一九六〇年代に、すべて消失しましたので、これらの貴重な植物も完全消滅しました。
また、江川と毛長川は用水を挟んで直線的に繋がっていますが、当時の毛長川は現在よりも東側に約五〇㍍ほど下流側に位置し、用水から分流する形で斜め方向に赤井地域へ向かう形で流れていました。
法性寺池とはとがや湧き水の里公園計画
現在、法性寺の駐車場となっている場所に、法性寺池と呼ばれる大きな池がありました。法性寺山と呼ばれていた頃より、貴重な水源地ともなっていました。特に、クサガメやイシガメにとっては良い住処となっていたようです。過去に鳩ヶ谷市内に存在していた池の中では本当の池らしい池でしたが、残念ながら埋め立てられて現在は駐車場となりました。この周辺も現在は住宅地となっていますが、昭和六十年代までは水田地帯でした。その面影が残っているのが湧水公園です。湧水公園は池と菖蒲田がありますが、その後背地には斜面林が保存されています。そして、斜面林および宅地の脇などから湧水が流れています。
この周辺を「はとがや湧き水の里」公園にとの計画が持ち上がり、二〇一〇年に「鳩ヶ谷市湧水の里保全整備計画」策定委員会(江口勝康委員長)が設置されました。そして、二〇一一年一月十七日に報告書が市長に提出され、二月八日の鳩ヶ谷市環境審議会を経て、二〇一一年度以降の整備計画遂行のための予算が計上されました。しかし、川口市との吸収合併にともない川口市より予算運用が凍結されました。従って、公園化構想は宙に浮いた形になっています。
江川のワンド池
本町一丁目の竹屋商店と野本時計店の間の路地(旧鳩ヶ谷銀座)は、かつては草加道(成田道)と呼ばれ、日光御成り道の鳩ヶ谷宿と日光街道の草加宿を結ぶ幹線道路で江戸時代に鳩ヶ谷宿と越ヶ谷宿・草加宿・千住宿・浦和宿・などの各宿場を結んだ道です。その先の本町三丁目商店街を抜けて御岳神社の前を過ぎると、木立の陰に『成田山十七里(約六八㎞)』という道しるべがあり古道の面影を伝えています。江戸時代に鳩ヶ谷から成田山を参詣する人は、この道をたどって日光街道から水戸佐倉道に入り、成田へと向かったものと思われます。さらに、江川に架かる長寿橋をこえると川口市立サンテピアの手前にも慈林薬師への道しるべが建っています。この長寿橋のすぐ北側で川が二つに分かれており、左に分かれるのが江川、右が前野宿川です。江川は用水との交差点より下流を毛長川、上流を江川と呼んでいるのが一般的ですが、一説には江川・前野宿川の合流点から下流を毛長川と呼んでいるようです。この長寿橋の下流、約五十㍍ほどのところにも池がありました。この池は、どちらかというと淀川などにあるワンドのようなもので、幅三㍍、長さは七㍍ほどの細長いもので江川からワンドのように食い込んだ形で存在し、池の周囲にはアカメガシワが小さな林を形成していました。この池には周囲の水田から細い流れがあり、その流れの上流は埼玉植物園に繋がっていました。当時、埼玉植物園には湧き水が流れる湧水池が三箇所ありましたが、現在は二箇所が埋め立てた後に温室が建ち、残る一箇所も池はありませんが湧水としては生きており、ここから流れ出た水は現在も本町三丁目公園の脇を流れ、鳩中通りを越えて本町四丁目三番地で左へ折れて用水の手前で江川へと注いでいます。昭和六十年代初期まで、この水路およびワンド状の池からは、大雨が降ると江川の水が逆流し、ドジョウ・タナゴ類・フナ等、多くの魚類が埼玉植物園の湧水池まで遡上して大人も子供も魚捕りに夢中になっていました。
トンボ公園池
今まで紹介した自然の池とは異なりますが、里小学校校庭に隣接した南側に、二つの池と湿地帯とが一体となったトンボ公園がありました。この池は篤農家が無償で提供してくれた休耕田、約三〇〇坪を子供達の環境教育の場として東京動物公園協会に勤務していた鎌奥哲男氏が退職後に、一般市民や子供達等のボランテイアと共に造成されました(一九九四年十二月)。周囲三五㍍、水深五十㌢ほどの小池と周囲六十八㍍、水深六十五㌢ほどの大池を結ぶ形で湿地帯(一二二平方㍍)をはさんで作られていました。トンボ公園が造成されてから八年間で自然塾トンボクラブが設置されて、この間に約五十回の自然観察に関わる環境教育が行われ、小学生を中心に延べ二百名以上の市民が教育を受けてきました。また、学校関係に対する指導でも、里小学校、桜小学校、南小学校、里中学校、県立川口高校、県立川口養護学校の児童・生徒並びに各町会の子どもたちなどに環境学習等も行って来ました。
しかしながら、二〇〇四年八月に里地区の区画整理に伴い保存されることもなく埋め立てられ宅地化されました。区画整理上道路が必要であったことから埋め立てが優先されたようですが、道路にかからない部分だけでも里小学校の敷地に組み入れ、学校の環境教育の場所として残して欲しかった場所でした。