縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第№68号 平成23年5月18日
鳩ヶ谷の生物 十五 藤波 不二雄
都市に進出したヒヨドリ
ヒヨドリの仲間は世界中に一三六種類が分布・生息しています。大きさはスズメ大からツグミ大の鳥で主に熱帯の樹林に生息し、嘴は薄めで口元付近が幅広くなっています。また、口元には長い剛毛があり、この剛毛は楕円状に並び脚は短かめです。飛び方は波状飛行が基本ですが枝の間を巧妙に飛びます。羽毛は長めで柔らかくふわふわしており色彩はカラフルで、下尾筒は目立つ色調のものが多く、かつ雌雄同型のものが多いのが特徴です。
センダンの実を食べるヒヨドリ
日本ではヒヨドリとシロガシラの二種類が生息しています。そして、日本のヒヨドリはヒヨドリ科の中で最も北方に分布する種類です。一方、シロガシラはヒヨドリよりも小型で、台湾ではペタコ(白頭翁)と呼ばれ、沖縄から八重山諸島にかけて台湾産亜種と中国産亜種が分布しています。
ウメに飛来したヒヨドリ
日本のヒヨドリHypsipetes amaurotisはスズメ目ヒヨドリ科に分類され、体は灰褐色で胸には縦斑があり、頬は赤褐色をしています。そして、下尾筒は灰褐色で淡色の羽縁があり雌雄同色です。野鳥の中にも甘党がいるとすればヒヨドリは疑いもなく甘党の筆頭に挙げられます。ヒヨドリはどう見ても美しい鳥ではなく、ヒステリックに泣き叫ぶような声、そして緊張したり、警戒したりした時に逆毛立つ胡麻塩頭が印象的です。「ピーヨ!ピーヨ!」と大きな声でよく鳴くことから「ヒヨドリ」の名が付いたといわれていますが、平安時代には「ヒエドリ」と呼ばれており、それがいつの頃からかヒヨドリに転移したとされています。「ヒエ」は鳴き声からきているといわれています。ヒヨドリは単にヒヨと呼ばれることが多いが地方によっては、なくい(菜食い)、ハナスイ(花吸い)、ヘイケドリ(平家鳥)、めくされ等、色々な地方名で呼ばれています。これらのうち、通常ヘイケドリと呼ばれる鳥は瀬戸内地方ではアビという潜水巧みな海鳥の事を呼んでいます。
頭の毛を逆立てて鳴くヒヨドリ
日本や韓国南部ではごく普通に見られる鳥ですが、ヨーロッパや南北アメリカ大陸、アフリカ、オーストラリアには生息していないため、世界的には「珍しい鳥」として知られており、ヒヨドリを見るために海外のバードウォッチャーが日本へ来ることもあります。日本では市街地から山地まで広く生息し、身近な野鳥の一つになっており、都市型鳥類とも言われています。以前は越冬のために移動してくる「冬鳥」でしたが、次第に環境に順化し、いつの間にか一年中国内に留まる「留鳥」へと変わってきました。ヒヨドリは関東地方では秋に飛来して越冬し、春には山野に戻って繁殖していました。三十年ほど前に発行された鳥学関係の図書では「本州では漂鳥で春四月頃に山地へ移住し、秋九月下旬から十月上旬まで留まり、それ以降は平地に漂行する」と書かれています。ところが、今ではビル街でも人家の庭先でも繁殖するようになり、一年を通していつでも観察できる留鳥へと変化してきました。都市鳥研究会や公益財団法人日本野鳥の会・東京支部などの調査によると、東京におけるヒヨドリの夏季の記録は一九五九年(昭和三十九年)に大田区で記録されていますが、普通に見られるようになってきたのは一九六八年からで、都内の数カ所で越夏が記録されています。そして、一九六九年には繁殖が確認され一九七〇年以降に山手線内の都心でも繁殖が確認されています。一九七一年には十数例の報告が集まりました。漂鳥(冬鳥)から留鳥へ、更に勢力を拡大して行きました。鳩ヶ谷市内でも一年中ヒヨドリが見られるようになったのは一九七〇年以降でした。
ヒヨドリが都市環境へ進出してきた説は色々ありますが明解なものはありません。ただ、理由の一つに何でも食べる雑食性の獲得があげられます。本来の食性は昆虫や果実であり、花の蜜を吸っていました。ところが今では餌台のパンや残飯なども食べる悪食の代表であるカラスと同じようになっています。鳩ヶ谷市内で何度か見たことがある例では人の吐物も食べていますので、それだけ都会の環境に順応してきたのでしょう。ヒヨドリは季節によって繁殖場所の山地と越冬場所の平地を移動し、北海道で繁殖したヒヨドリのほとんどは、十月頃になると越冬のため本州以南に移動します。東室蘭の先端にある地球岬では、毎年秋になると各種の渡り鳥が通過することで知られ、ここでも多くのヒヨドリが本州を目指して海峡を越えていきます。日本のヒヨドリは北海道から南西諸島などに九亜種のヒヨドリが分布しています。その中で渡りをするヒヨドリは北海道のエゾヒヨドリと本州北部に生息するヒヨドリの二亜種といわれています。南の島々にはアマミヒヨドリ(奄美諸島)、リュウキュウヒヨドリ(沖縄諸島)、ミヤコヒヨドリ(宮古島)、イシガキヒヨドリ(石垣島)、タイワンヒヨドリ(与那国島)、ダイトウヒヨドリ(大東列島)、オガサワラヒヨドリ(小笠原諸島)、ハシブトヒヨドリ(硫黄列島)などが生息しています。これらのヒヨドリの亜種は南へ行くほど羽色が濃く、褐色をおびています。このような生息地域による色調の違いは、同種あるいは近縁種の哺乳類や鳥類では温暖多湿の気候下で生活するものよりも、乾燥寒冷な気候下で生活するものの方が、メラニン色素が少なく明るい色をしているというグロージャーの法則に則っています(例外もありますが)。
ヒヨドリの繁殖
鳩ヶ谷市内に定住した頃のヒヨドリの繁殖時期は比較的遅く五月中旬以降、かなり木の葉が茂った頃でしたが、最近は気候変動の影響か四月下旬頃には繁殖に入るようです。ヒヨドリは雑木林の下枝や庭先の植え込みの葉が混んだような場所に営巣しますので、なかなか巣が見つかりません。たまたま庭木の剪定をしていたら巣があった、あるいは学校の教室の窓から下の木の枝を眺めたら巣があった等で見つかるケースが多いようです。産卵は一日一卵を産んで三~四卵を産み終えると雌が抱卵を開始し、卵を温め初めて二週間ほどでヒナが孵化します。その日から両親はヒナに餌を運びはじめますが、初めのうちはヒナが丸裸なので雌が時々温めていますヒナが大きくなるに従い盛んに餌をほしがるので親の餌運びが忙しくなります。ヒナに持ってくる餌はイナゴ、ミツバチ、スズメバチ、ガガンボ、セミ、トンボの仲間等の昆虫類やクモ類等バラエテイに富んでいます。ヒヨドリの雛が巣にいる時間は大変短い期間で孵化後、十日~十二日程度で巣立ち、その後一ヶ月近くの間は親と行動を共にしているようです。
市内で観察した一例では、埼玉高速鉄道鳩ヶ谷駅西口にあるパチンコ&スロットのパラッオ鳩ヶ谷の高層ビル周辺に疎らに植栽された十数本のアメリカハナミズキの一本にヒヨドリが出入りをしているのを観察しました。第二産業道路の歩道に面した場所で駅への通勤客などの人通りがある場所ですが、その気になって見つけないと巣があることがわからないくらいです。ちょっと見には紙くずか何かが引っかかっているのかなと言う程度で、細いビニール紐と小枝で編んだ直径十㎝程度の粗末な巣でした。巣の高さは一五〇㎝ほどの位置で、数羽のヒナが見えましたが親鳥が戻って来たのでその場を離れました。しかし、次の週に見に出かけた時には空の巣のみが残っていました。このように人通りの多い場所ですが、意外と気がつかずに繁殖していることもあります。
ヒヨドリの食害
鵯のこぼし去りぬる実の赤き
と江戸中期の俳人である与謝蕪村が詠っていますが、ヒヨドリの餌は夏は繁殖期でもあるので前述したような昆虫類などが主ですが、秋から冬にかけてはノイバラ、ビワ、カナメモチ、ムクノキ、センダン、マンリョウ等の木の実などが中心となります。また、糖分を好むためカキ、ミカン、リンゴなどの果物を好んで食べ、ツバキやサクラなどの花の蜜を吸ったりします。しかし、例えばサクラの花であれば、どのようなサクラにもヒヨドリが来るかというと必ずしもそうではありません。サクラには様々な種類があり、ヒヨドリが好むサクラと必ずしもそうでないサクラがあります。基本的には野鳥が好むサクラは花蜜の多い種類です。一般的に知られている種類としてソメイヨシノ、アンギョウザクラ、カワヅザクラ、オオカンザクラ等の花弁が一重(ひとえ)のサクラは、花弁の枚数の多いヤエザクラ(八重桜)に比べて花蜜が多い傾向があります。また、一重でもヤマザクラは花蜜が少ないので野鳥の姿は少なめです。八重桜でもまったく来ないことはありませんが、花にくちばしを差し込み、蜜を吸う姿は一重のサクラでより多く見られます。アンギョウザクラで有名な川口市安行原の密造院ではソメイヨシノよりも一足早く三月中旬頃には満開を迎えます。別名、沖田桜とも呼ばれるアンギョウザクラはピンクの色彩がやや濃く、花が少し小ぶりですが遠景ではやわらかいイメージに映ります。密蔵院では数十本のアンギョウザクラが境内の要所に植栽され、春の彼岸に満開になるので多くの参拝客で賑わいをみせます。この敷地内のサクラでも野鳥が多く集まる木と少ない木があります。平成二十三年三月に観察した時には、山門横の大黒堂北側にあるサクラにはメジロが五十羽以上集まって来ましたが、ヒヨドリは山道沿いのサクラの木に集まる傾向があり、百羽近くのヒヨドリが集まり賑やかに騒ぎ立てながら吸蜜していました。
厳冬期の一月から三月頃はヒヨドリに限らず野鳥にとって餌を確保するのが大変な時期になります。そのため手頃な餌を求めることになり、それが食害に繋がります。南の比較的暖かい地方では主に柑橘類に対する被害が多くなりますが、関東地方での主な被害は露地栽培している白菜やキャベツなどの葉物野菜が主となります。特にキャベツは外側の硬い葉ではなく、真ん中の柔らかくて美味しそうなところを狙います。ブロッコリーも葉を食べますが花芽は食べないようです。しかし、葉が食べられてしまうと花芽もあまり育たなくなるようです。大きな畑では数百羽のヒヨドリが集まるために葉物野菜が傷だらけになり出荷できなくなるものもあります。対策としては早めに収穫したり、ビニールのトンネルや寒冷紗などで守る以外は良い方法がなさそうです。また、ヒヨドリは食欲旺盛なため、木の実を次々にくわえて丸飲みしては種子が未消化のまま排泄されることも多く、種子を遠方へ運ぶ鳥としても有名です。近年は温暖化の影響もあり、シュロやアオキなどの植物が鳩ヶ谷市内でも増加していますが、これらの植物の分布拡大にはヒヨドリが大きな役割を果たしています。
農薬によるヒヨドリの被害
二〇一一年二月五日(毎日新聞)および埼玉県政ニュース等によれば、 行田市埼玉の休耕中の畑で二十羽のヒヨドリが死んでおり、検査の結果、殺虫剤として使われる農薬成分の「メソミル」が検出されたとの発表がありました。
四日午前九時半ごろに住民からの通報があり、県が二十羽の死骸のうち五羽について鳥インフルエンザの簡易検査を実施し陰性だったが、胃の内容物を調べたところ全てからメソミルが検出された。
県内では一月三十一日にも蓮田市内でムクドリ八羽が死んでいるのが見つかり、同様にメソミルが検出されている。
また、十八日午後三時頃、飯能市双柳の住宅街にある駐車場でヒヨドリが四羽死んでいるのを住民が見つけ、市役所に通報した。県が調べたところ四羽全てから農作物向けの殺虫剤「メソミル」が検出された。十七日も同じ場所で三羽が死んでいるのが見つかっている(二〇一一年二月二十一日/読売新聞)。
埼玉県内では一月末から、蓮田、行田、飯能、三郷市でヒヨドリやムクドリなどの死骸からメソミルが検出されるケースが相次ぎ二月十八日までに六件四十四羽が報告されています。このような、過度な農薬による中毒死の例は過去にも色々な野鳥やネコなどでも報告されています。
通常、メソミルなどの農薬は適正な濃度で使用していれば農薬が付着している野菜を鳥が食べても中毒死することは無いと言われています。野鳥が死ぬほどの農薬を散布しているとすれば人にも少なからず何らかの影響が出るかも知れません。メソミルは米国デュポン社が開発したカーバメイト系の殺虫剤で、日本国内では一九七〇年に登録され、「ランネート」などの商品名で販売されています。経口投与した際の体重一㎏あたりの致死量(LD50)はラット十七㎎、マウスおよびハトでは十㎎を摂取すると半数が死ぬといわれています。通常は野菜畑などでハスモンヨトウ(蛾の幼虫)等の害虫に対し使用されています。毒物劇物取締法の「毒物(含有量四十五%超)劇物(含有量四十五%以下)」に指定されており、殺虫剤については劇物指定されています。このような農薬をむやみに散布使用することは厳に慎むべきであり、その野菜を人が食べた時の影響を考える必要があります。農薬は病害虫を殺すだけでなく、人の健康や野鳥を含む生態系に様々な悪影響をもたらした歴史があります。天然記念物に指定されていた野田の鷺山のサギ類が絶滅したのも農薬が主な原因です。レイチェル・カーソン著「沈黙の春」(一九六二年)以来、農薬の害は繰り返し指摘されていますが、野生生物や人間への被害は無くなりません。農薬の中でも殺虫剤は昆虫の脳神経系を標的として開発されていますので、殺虫剤が害虫以外の生物にも悪影響を及ぼすことは当然起こりえることです。また、農薬などを用いて、故意に野鳥を殺傷した場合、鳥獣保護法に抵触する可能性があり、懲役一年以下もしくは罰金百万円以下の刑が定められています。
源義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落し
尋常小学唱歌(一九八二年)で歌われた「鵯越」
一、鹿も四つ足、馬も四つ足
鹿の越えゆくこの坂路
馬の越せない道理はないと
大将義経真先に
二、つづく勇士も一騎当千
鵯越に着いて見れば
平家の陣家は真下に見えて
戦今や真最中
三、油斷大敵、裏の山より
三千余騎のさか落しに
平家の一門驚きあわて
屋島をさして落ちてゆく
平安時代末期の寿永三年(一一八四)、平家討伐を源頼朝に命じられた義経と範頼は、平氏を挟み撃ちにするため二手に分かれました。義経の軍勢は「鵯越(ひよどりごえ)」と呼ばれる絶壁(現神戸市兵庫区)の上から「この崖を鹿が下ったというなら、馬でも下れるであろう」と、合図とともに馬ごと駆け下り、崖下の平氏の陣へ一気に攻め入った。不意をつかれた平氏は海になだれ込み、船で瀬戸内海を渡って屋島へ逃げたといわれています。
これは、源平合戦「一の谷の合戦」の名場面です。ここに出てくる「鵯越」という地名は、海を渡ってきたヒヨドリが、絶壁をなす急斜面を一気に昇っていくさまを見て付けられたと伝えられています。毎年、秋になると 多くの野鳥は北から南へと移動を始めます。タカの渡りで有名な伊良湖岬でもヒヨドリの渡りはよく知られています。よく晴れた日の早朝に数百から数千羽のヒヨドリが、伊良湖岬から三島由紀夫の長編小説「潮騒」の舞台となった神島、そして鳥羽へと渡っていきます。神島や鳥羽へのフェリーに乗って海を眺めていると、伊良湖岬を飛びたったヒヨドリが、波を被らんばかりの海面すれすれを飛びながら神島へ近づくと高度を上げて、一気に山頂近くまで飛んでいきます。恐らく、この様な光景を見た人が「鵯越」という名前を考えたのではないかと思われます。しかし、鵯越と須磨の一の谷とが八キロの距離を隔てているため、逆落しは鵯越か一の谷か、と言う論争もあるようです。一の谷合戦当時、平家の総大将宗盛が鵯越の麓にある大輪田泊にいたこと、安徳天皇と三種の神器を擁した御座船も同じく大輪田泊に泊っていたために、この本陣目掛けて鵯越の逆落しが行われたのであり、論争の元は一の谷の所在の間違いに始まると言われています。
ヒヨドリの名前が付いた植物
植物の名前には、鳥の名前が付いたものが少なくありません。例えば、キク科のヒヨドリバナ(鵯花)は昔は秋になるとヒヨドリが群れを成して各地から移動をしてきていました。そして、喧しい声で鳴き騒ぐ頃に花が咲いたことからこの名が付いたといわれています。実際にはこの頃に咲く花は沢山あるわけですが。他にも同じ仲間にヨツバヒヨドリ(四つ葉鵯)、ヤマヒヨドリ(山鵯)、サワヒヨドリ(沢鵯)、サケバヒヨドリバナ(裂け葉鵯)などがあります。
もう一種類は、ナス科のヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)で、東アジアから東南アジアに広く分布し、日本全国に生育するツル性植物です。森林との境界部分などに生育していることが多く、八月から九月にかけ白い花を咲かせます。花は五枚の花びらが反り返り、合わさった葯が良く見えます。果実は緑色から朱紅色に熟し、小さな「ほおずき」のイメージがあり、ヒヨドリがこの赤い実を好んで食べると想像した人が付けたものと思われます。数年前から鳩ヶ谷市内でもヒヨドリジョウゴの花を各所で見かけるようになってきましたが、これもヒヨドリによる拡散分布と思われます。
「ひよどり草紙」
吉川英治の小説で一九二七年八月に講談社から刊行されましたが、その後四回に亘って映画化されました。一九五四年二月一〇日に公開された時は、主演女優は美空ひばり、主な俳優は中村錦之助、戸上城太郎、嵯峨美智子、花柳小菊、堺俊二、山茶花究と言った往年の豪華キャストでした。内容は「朝廷から家康の征夷大将軍着位の祝いとして賜った紅ヒヨドリが江戸へ下る道中、何者かによって本陣が襲われ紅ヒヨドリは野に放たれてしまいます。そして、世にも稀な紅ヒヨドリの行方を尋ねもとめる耀之介と早苗という主人公がいて、二人は幼なじみだが親の生命をかけて争う仲。時は慶長十八年、江戸・大坂に風雲ただならぬ頃」強い児童愛をこめて書かれた作品で、大人も惹きつける魅力をもっている小説ですが、本の表紙絵にあるベニヒヨドリが印象的でした。実際にはベニヒヨドリという鳥は実在しませんが。植物ではベニヒヨあるいはベニヒヨドリという名のついているサクラの種類が知られています。
参考文献
金井裕(一九八〇) 『千葉大学構内に生息する都市環境下でのヒヨドリの生活空間』湾岸都市の総合的生態学的研究Ⅱ、p112-123
川内博・藤本和典(一九七四)『林からでたヒヨドリ』野鳥第三九巻第七号(通巻三七四号)、p377-379
川内博(一九八三)『ヒヨドリの越夏と都市への適応』遺伝、三十七巻八号p.32-33
清棲幸保(一九七八) 『日本鳥類大図鑑Ⅰ』講談社
日本メール・オーダー社(一九七三) 『ヒヨドリ』週刊アニマルライフ、一一三号
都市鳥研究会(一九八六) 『都市鳥観察カードから』URBAN BIRDS No.18