縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第68号 平成23年11月18日
里山の春を訪ねて
藤波 不二雄
平成二十二年三月二十七日(土)、鳩ヶ谷郷土資料館主催の「里山の春を訪ねて」の催しに三十五名の市民が参加しました。散策コースは郷土資料館を起点に、鳩ヶ谷市桜町六丁目の弁天池跡地、川口市赤山の源長寺、赤山調節池、赤山城址公園、西立野にある西福寺等を経て戸塚安行駅まで約五㎞の行程で里山の花と緑に誘われて自然観察を兼ねた史跡散歩が行われました。
三光稲荷の湧き水と里山
三光稲荷は屋敷林が「埼玉県ふるさとの森」に指定されていましたが、平成十九年三月に解除され、それ以後は鳩ヶ谷市の保存樹林に指定されています。樹林に続く植木畑には現在でも清涼な湧き水が湧き出ており、住宅地横の細い溝から幅一㍍程の流れとなり数百㍍先で江川に流入しています。その水は住宅地を流れるどぶ川とは思えないほど奇麗に澄んでいます。また、殆ど知られていないと思われますが、本町二丁目の水道局ポンプ場脇の空き地にも昭和六十年代まで湧き水があって細い流れがありました。今でも、その伏流水の一部が浸みだして三光稲荷からの流れに入り込んでいます。
現在の三光稲荷の杜はかなり小さくなっていますが、昭和六十年代前半頃までは地蔵院まで林が続いており、日中でも薄暗い場所で人通りもあまりありませんでした。そして、国蝶であるオオムラサキあるいはミヤマカラスアゲハなどの貴重な蝶やカブトムシ、クワガタムシの仲間等の昆虫類が豊富に生息していました。植物では春になるとキンラン、ギンラン、シュンランといったラン科の植物をはじめとして鳩ヶ谷市内で唯一、フデリンドウという可憐な花が生育する場所でもありました。ちなみに、この地域が開発されて建売住宅が出来た当時の住宅の価格は八十万円程度でした。三光稲荷から続く台地の東側には大龍寺山がありました。
大龍寺山は現在の鳩ヶ谷中央病院のある場所で、浦寺大通りと呼ばれ斜面林があり、一九六六年~一九六七年までヨタカという野鳥が生息していました。一九六八年に斜面林が伐採され、宅地化されました。この頃までは林の中程に小さな祠が祀られていましたが、近年になり敷地内に再建されています。扁額には「大龍寺稲荷」とあり、朱色の旗が風に舞い「正一位 大龍寺稲荷大明神」と書かれています。また、大龍寺山の南側、現在の桜町六丁目十四~十五付近には通称龍神池と呼ばれる池があり、中央の島には小さな祠がありました。大龍寺山と権現山(現在のコンフォール東鳩ヶ谷の敷地)を取り囲むように谷津田が入り組んでおり、台地上には貝塚がありました。大龍寺山と権現山の間も谷津田となっており、川口市安行慈林村堂下地区が、ラクダ坂の境まで食い込んでいます。この辺りの水田は泥深く、今で言う冬水田圃の状態で、ウナギやナマズ、ライギョなどもとれました。
弁天池
一九六〇年代初期まで鳩ヶ谷中央病院北側には、水量豊富な湧水池がいくつかありましたが今は宅地化されて枯渇しています。そのうちの一つに、鳩ヶ谷福音教会東側には十㍍四方ほどの広さの弁天池があって、周辺農地の水源となっていました。池の脇にあった弁財天信仰の石造物が今も残されており、往時を忍ぶことができます。池があった当時は弁天池より安行慈林薬師寺の社寺林までの間は全て水田地帯でした。そこには大龍寺山から数本の湧き水が流出しており、ドイと呼ばれる細い流れが水田を経由して江川に注ぎ込んでいました。
源長寺
源長寺は元和四年(一六一八)、関東郡代伊奈半左衛門忠次が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を開山として迎えたといわれており、現在に至っています。左手奥にその墓と伊奈家頌徳(しょうとく)碑があります。寛文十三年、(一六七三)五代伊奈忠常が建立し、伊奈忠次、忠政、忠治の功績をたたえたもので、川口市の文化財に指定されています。境内の壁際には元徳二年(一三三〇)の板碑もあります。山門右脇にある梅林では、毎年二月から三月初めにかけて見事な花を咲かせています。
赤山調節池と江川調節池(江川運動公園)
赤山調節池は首都高速道路川口線の北側にある調節池で、赤山城址の南西堀の上方にある低地帯地域に作られた調節池です。現在は葦原で覆われていますが、以前は湿地状の休耕田でカモ類やクイナの仲間が生息していました。赤山城が自然の要塞として地形を利用して作られている事が窺われる場所です。この低地を源流とする江川が赤山調節池に沿って流れを作り、南側に創られた江川調節池(江川運動公園)脇で、綾瀬川清流ルネッサンス事業に伴ってつくられたポンプ場より定期的に大量の水が放流されています。
また、安行慈林の首都高速道路の傍にある安行造園の庭園を源流とする慈林川が安行慈林小学校の脇を流れ、前野宿川と合流した後、長寿橋手前で江川と合流しています。この流路が鳩ヶ谷市域と川口市の安行慈林および赤井地域を流れて、東縁見沼代用水を越えて毛長川となり最終的には東京都足立区を流れる綾瀬川に合流します。二〇〇七年と二〇〇九年には大量の降雨があり、鳩ヶ谷市桜町の一部および本町四丁目の一部地域が浸水被害にあいましたが、この時には赤山調節池、江川調節池はもちろんのこと毛長川調節池が満水となりました。一九八〇年代初期までは赤山低地から毛長川調節池に至る地域は水田地帯であり、大雨が降っても水田が調節池の役目を果たしていたことから洪水になることはありませんでした。大宮台地鳩ヶ谷支台は幾重にも入り組んだ低地が取り囲んでおり、高台部分を選んで赤山陣屋が建造されたものと思われます。
赤山城址公園(赤山陣屋跡)
赤山陣屋は江戸時代初期から末期にかけて関東郡代を務め、土木・治水技術等の業績を残した伊奈家が居城した陣屋敷跡です。伊奈氏は徳川家康の関東入国と共に鴻巣・小室領一万石を賜り、忠次以後十二代にわたって関東郡代職にありました。そして、関八州の幕領を管轄し貢税、水利、新田開発等にあたりました。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現在の伊奈町)から赤山の地に陣屋を移しました。これが赤山城(陣屋)で、十代百六十三年間に亘って伊奈氏が居城したものです。北側と西側は低地が沼地になっていたことから自然の堀になっていたものと思われます。沼地としてのなごりが赤山城址と西立野西福寺の間の谷地には湧き水を集めたいくつかの沼があり、昭和六十年代前半頃までは川口市内で唯一、オシドリの群が毎年飛来し越冬していました。赤山城の跡地の一部は農地となりました。しかし、残りの地域は竹林や雑木林として鬱蒼とした場所がいくつかありましたが、現在は内堀と土塁の一部が公園として整備されています。植木畑から竹林に続く遊歩道は昔の栄華を偲びながら散策することが出来ます。
西立野西福寺・三重の塔
川口市景観形成基本計画によると、この周辺は「西立野ふるさとの森景観地」に指定されており、赤山陣屋からここに至るまでは里山と谷津田が交互に連なり昔からの自然環境が残されていて往時を偲ぶことが出来ます。この様な景観地にあって西福寺は一九九六年頃までは寺域周囲はスダジイの巨木に囲まれフクロウが繁殖し、いかにも由緒あるお寺というイメージがありました。三重の塔の周りには桜の巨木もあり、開花時期には多くの人たちが訪れていましたが、現在は桜の巨木も殆ど消失して駐車場となり景観が様変わりしています。
西福寺は真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(八一〇~八二四)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹と言われています。寺内には三重塔と観音堂があり、百観音が安置されています。三重塔は三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約二十三メートルあり県下では一番高い木造の建物です。棟札銘文によると、この塔は、「元禄六年(一六九三)三月二十七日に建立完成されたもので、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた時もあったが、現在では廃止されています。塔は、鉄製の釘を一本も使わず細工によって作り上げてあり、構造は方三間で一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井付近にある蟇股(かえるまた)には、十二支を表す動物の彫刻が刻まれ、方向を示しています。また、入口正面にある観音堂には、西国、板東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂を参詣すれば、百ヶ所の観音霊場を参詣したのと同じだけの功徳(御利益)があるといわれ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑わうところである(昭和五十八年三月・案内板より)。
散策したコースは、県立安行武南自然公園の一部であり、歴史散歩のコースとして知られていますが、今回は史跡のみならず自然環境と地形を中心に、また里山と湧き水に由来する江川の流れを考えながら散策し、いずれの史跡も元々存在した台地と低地の地形を上手に利用していたことが解り、昔の人々の知恵を改めて考えさせられた一日でした。