縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第65号 平成22年5月18日
「はとがやに里山をつくる会」発足
藤波 不二雄
鳩ヶ谷市の歴史を見ると、鎌倉と奥州(東北地方)を結ぶ鎌倉街道中道(なかつみち)が鳩ヶ谷を通り、交通の要衝として栄えました。その後、江戸時代には徳川将軍が日光東照宮に参拝するための街道である日光御成道の宿駅としてますます発展してきました。明治に入ってからの鳩ヶ谷は三・八市が開催されるなど埼玉県内屈指の賑わいをみせていました。そして、昭和初期には織物買継商や米穀問屋が軒を連ね、また浦和裁判所の出張所、鳩ヶ谷警察分署、そして登記所などの主要な公共施設が鳩ヶ谷に設置され、埼玉県南部の中心地となりました。宿場町として栄えた鳩ヶ谷ですが、江戸時代には紀州家のお狩り場として、里山や湧き水のある湿地等の自然環境や農地が守られ維持されてきました。しかし、農地整備や区画整理に伴う農地の減少、更にここ数十年の間に亘って無秩序に行われた市街地の開発によって土壌はコンクリートに覆われ、その働きが失われ生物のすみかの消失や行き来を困難にするなど大きな影響を与えてきました。昭和三十年代に東西の公団住宅ができてから現在、里山と言われる平地林がどんどん無くなっていきました。
現在、多くの鳩ヶ谷市の住民は農地や里山をつぶした宅地で暮らしています。鳩ヶ谷市へ転居してきた当初は緑あふれる自然をよりどころとして生活を満喫しているはずでした。しかし、農地や里山などの自然環境が消失した現在、身近な公園が唯一の緑となってきています。
そこで、公園を「遊ぶ公園・見る緑」だけではなく「つくる緑」の場として、第二の里山として町に緑を拡げていく拠点として考えることが必要です。
国の指針である土地区画整理事業では、区画面積三㌫の都市公園を作ればよいことになっていますが、貴重な農地や林地が消失し、野生の樹木や草花が残るのはほんの一部に過ぎません。
都市化の進む鳩ヶ谷ですが歩いてみれば良いところがあります。
昨年一月七日に「緑でつなぐ街作り」の拠点作りの観点から第一回鳩ヶ谷市民環境会議のメンバーが集まり、氷川神社~鳩ヶ谷小学校の斜面林~東縁見沼代用水沿いにある斜面林(本町四丁目)を見て、三光稲荷~大龍寺山~コンフォール東鳩ヶ谷~鳩ヶ谷水道局~地蔵院、等を散策し、この間にある保存樹や保存樹林などの見学を行いました。その結果、殆どの参加者が市内に住んでいても、この様な貴重な場所があることを知らなかったと感動していました。 その後の会議の中で「緑でつなぐ街づくり」を行っていこうという有志が集まり、はとがやに里山をつくる会が発足しました。
平成二十一年十二月十七日にふれあいプラザさくらに於いて第一回「はとがやに里山をつくる会」の会合を持ち、会長 戸沼雪江 副会長 鈴木智子 、江口 勝康(事務局兼務)の諸氏が役員となりました。
鳩ヶ谷市にある環境保護団体は唯一、(財)埼玉県生態系保護協会・鳩ヶ谷支部(三浦青児支部長)がありました。鳩ヶ谷支部は自然と共生した持続可能な美しい街作りに向けて、鳩ヶ谷市・市議会・市民と共に様々な活動を展開していますが、「はとがやに里山をつくる会」は視点を変えて活動を行っていく予定です。本格的な活動はこれからですが、現在残っている樹林・斜面林を残しつつ、既存の公園のあり方を見直すとともに、新しく自然環境を創出していく事がこれからの活動の中心になっていく事と思います。同時に、環境に関する市民の意識を高めるために、市と協働で環境問題に関わる環境講習会などを実施し、行政と市民が共に街作りをしていきたいと考えています。