縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第65号 平成12年5月18日
鳩ヶ谷の生物十二
鳩ヶ谷から消えたヒバリ
藤波 不二雄
冠毛をたてて警戒するヒバリ 空中で囀るヒバリ
ヒバリという鳥の名前は誰でも知っていると思いますが、どのような姿・形をしているのか、春以外の季節はどこで何をしているのかを知っている人は少ないのではないでしょうか。
ヒバリの仲間は世界中で九十一種類が知られていますが、日本ではヒバリ Alauda arvensis を含め七種類が記録されています。通常、漢字表記すると「雲雀」と書きますが、別の「告天子(こうてんし)」という表記はモンゴルや中国東北部に分布する別種のコウテンシ MelanocoryphaMongolica 指します。これは、コウテンシが日本には分布していないことから、一説には漢文などに記された告天子の表記をコウテンシに似たヒバリと解していたのがやがてヒバリを指すように変化してきたのではないかと言われています。日本において過去に記録が無かったコウテンシですが、二〇〇五年五月四日に天売島で初めて記録・撮影されました。その他のヒバリの仲間は迷鳥としてハマヒバリ、クビワコウテンシ、ヒメコウテンシ、コヒバリ、タイワンヒバリ等が記録されています。
ヒバリの仲間は日本と同様に、中国でも古くから鳴き声を楽しむために捕獲・飼育されており、現在もモンゴル産のコウテンシやクビワコウテンシなどが中国各地で販売されています。一例として、二〇〇七年一月二十四日、北京市・野生動物救護センターが二三〇〇羽のコウテンシを空に放したという報告があります。「ニュースによれば、放たれたのはモンゴルコウテンシとハマヒバリ二種類で今回の放鳥は、センター創立以来最大数を記録した。野生動物救護センター主任の張志明氏の話によると、この莫大な数のコウテンシは違法に生け捕りされ、押収された鳥たちだという。二三〇〇羽のうち五九四羽のモンゴルコウテンシ、七十七羽のハマヒバリには足環(鳥の区別をする記号や番号がついた標識)がつけられ、中国延慶県・野鴨湖湿地から飛び立っていった。」というような情報があります。
日本のヒバリは全国の平地や山地の畑地・河原などに生息し繁殖します。また、北の地方のヒバリは暖地に移動して越冬することが知られており、カムチャッカや千島・サハリンなどから冬期に越冬のために渡ってくるものも少なからずあります。これらは、通常見られるヒバリよりも少し大型のヒバリでカラフトチュウヒバリとかオオヒバリと呼ばれているヒバリの亜種です。子供の頃、正月に田圃で凧揚げなどをしていると足元から突然、ビルッ、ビルッと鳴いて飛び立つ小鳥がいましたが、これがヒバリです。ヒバリはウグイスと同じように春告げ鳥と呼ばれることもありますが、実際には冬の間も私たちの身近なところに生息していました。しかし、冬には囀らなかったために解らなかったのです。
ヒバリの名の由来は晴れた日に空高く上って囀るところから「日晴れ」が語源となったと言われています。また、ピーチュルル、ピーチュルルと囀りながら空に向かって上がっていく時の状態を揚げ雲雀、下がってくる時に囀る状態のヒバリを下げ雲雀(空高く舞い上がって一直線に地上に霧かつて落ちてくるような感じ)などと俳句の季語としても使用されています。
万葉集の大伴家持の歌に
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも ひとりし思へば
ひばり上がる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく
この様に春のうららかな空を連想させてくれます。ヒバリの学名が「畑の歌姫」を意味するといわれていますが、美しい囀りのために、かつては飼い慣らしたものを野外で放して囀らせたり、滞空時間の長さを競う「放し雲雀」等も楽しまれていたようです。
時々、鳩ヶ谷市内でも雲雀籠という飼育籠(ヒバリ専用の背が高く上部が網になっている)で飼育しているのを見かけますが、これは違法飼育であり、現在はメジロやウグイスなどと同様に野鳥の飼養は禁止されています。
ヒバリの方言
植物や昆虫などでも地方によって色々と方言が知られていますが、ヒバリでも多くの方言が知られています。変わっているところでは、ちちぼろ(大分)・ひりり、かやどり、ちんちん、ひばい(鹿児島)・むぎうらし(愛媛)・しばり(山形・福島・富山)・すばり(山形)・ひわり、へばり(富山)・のひばり、ひばる(愛知)・げえ(喜界ガ島)・いちろく、いちろし、いちべえ(新潟)・もどくり(広島)等の方言があり、一番多い方言が「ひばる」で栃木・静岡・熊本など十六県で知られています。
これらの方言のうち「むぎうらし」とは鷭(ばん)に似た中型の鳥で、初夏から初秋にかけて夜になると「ほう、ほう、ほう」と憂いをおびた独特の声で鳴き、主としてみぞや雑草の中にいて、なかなか姿を見せないという。鳴き声から正体不明の妖怪を連想させるのだといわれるが、ところによってはカッコウの仲間の「ツツドリ」をむぎうらしと呼ぶ地方もあるようです。いずれにしても農業とむすびついているものと思われます。 ヒバリは日本各地で様々な名前で呼ばれていますが、西洋では清らかな愛を歌う鳥、また朝を象徴する鳥だといわれています。
囀りについても、地方によって色々な「聞きなし(鳥の声を解りやすい言葉で表現)」があるようです。ヒバリの囀りは複雑ですが「一升貸して二斗取る、利取る利取る」、「利に利食う、利に利食う、後や流すう」、「日一歩・日一歩・利取る・利取る」という具合に「聞きなし」されています。このような聞きなしの表現からヒバリは金貸しというヒバリの昔話がいくつか伝えられており、秋田地方や石川地方の昔話ではヒバリの囀りを「利取る、利取る」と聞き、金貸しに仕立てているといって、お天道様にお金を貸したのだけれど返してくれないので、催促をするというような話が知られています。
一方、沖縄地方の昔話では、八重山郡竹富島では「ヒバリと若水」という次のような話が伝わっています。
ヒバリは天の神様から若水(若返りの水)をあずかって下界へ運んでいって人間に飲ませるようにいわれたのだけれど、過ってハブに若水を飲まれてしまって、少ししか残らなかった。人間はそれを手と足の爪にぬりつけたので、切っても切っても伸びるようになった。天に帰ったヒバリに神様はひどく怒って、それまでヒバリは鳥の中ではいちばん大きな鳥だったのだけれど、罰で今のように小さくなってしまったという話です。このようにヒバリは昔から農業や人の生活と密接に関わりを持っていたことが窺われます。
ヒバリは減少しているのか
野鳥の研究団体である「バードリサーチ」が行った東京都のヒバリの生息分布調査によると、一九七〇年代と一九九〇年代の分布状況と環境を比べたところ、ヒバリの生息のためには、畑、草原、水域が重要だということが明らかになりました。この傾向は両年代ともに同じでしたが、一九七〇年代は畑への依存度が最も高く、一九九〇年代は、畑への依存度が最も低くなっていました。この原因として一九九〇年代には畑の面積が急激に減少しており、その減少した地域はヒバリが減少した地域と一致していました。都市化の影響を受けて畑が減少したことにより、ヒバリの生息に大きく影響していると考えられます。
一九六〇年代以前は鳩ヶ谷市内でも麦畑が沢山あり、春になるとヒバリの囀りを各所で聞くことができました。鳩ヶ谷中学校の東側、赤井の里山に挟まれた地域には東縁見沼代用水までの間には水田と畑地が広がっていました。近所の子供達は魚採りなどをして遊んでいるついでに、ヒバリの巣探しをしました。ヒバリが空から降りてくるところを見定めて、子供達が周囲を取り囲むようにしてヒバリの巣を探しましたがなかなか見つかりませんでした。空から降りてくるヒバリを麦畑の中から見ていると、小さな黒い点がだんだん大きくなり、羽を動かしている姿まではっきりと見えたものです。最後には小石のように一直線に地上に落ちるように降ります。後に解ったことですがヒバリが降りるのは巣からかなり離れた場所で、そこから地面を歩いて巣に戻るという用心深い鳥であることが解りました。鳩ヶ谷市内では一九六〇年代に殆どの麦畑が消えてしまったので、恐らくその頃からヒバリの囀りを聞く機会が減少したのではないでしょうか。
昨年、茨城県の利根川河川敷で野鳥を観察していたところ、河川敷内に砂利で整地された駐車場にほんの少しのシロツメクサなどが生えた場所でヒバリが囀っていました。車が止まってもわずかに移動をするのみで飛ぶ気配がありませんでした。もしかしたらと思って、近づいて見ると砂利の上に細い草で作られたヒバリの巣があり、中に三卵がありました。この様なところで繁殖するとは珍しいなと思っていましたが、次の週に行くと数日前に降った大雨の影響で巣は完全に水に浸かっており、卵も腐乱していました。河川敷内はもともと氾濫源であることから、雨が降れば水による影響は想定されることですが、この様な場所でも営巣し、中には流失したり土砂で埋まったりすることもありますが、また同じ場所へ営巣する事もあるようです。この様な事例に関して、日本の鳥のファーブルとして知られている仁部富之助が詳細な観察記録を残しています。
見沼田圃のヒバリ
私たちの身の回りではヒバリは減少しているのでしょうか。そのような疑問を持ち二十年以上前から調査を行うことを考えました。しかし、鳩ヶ谷市内ではヒバリを調査するための場所がないことから、見沼田圃の一角にある川口市差間・行衛地区とさいたま市の下山口新田(現在は、芝川第一調節池予定地と
して工事中)の約九十㌶において調査を行い、ヒバリの変化を調べました。調査期間は一九七八年~一九八五年および一九九五年~二〇〇七年迄の二十年間です。この間の調査回数は二〇〇回で、ヒバリの全記録数は四三二羽でした。単純平均すると一回の調査で約二羽が記録され、最大羽数は二十七羽であり、全く観察されなかった日も多くありました。
環境の変化をみると、一九八〇年~八四年までは水田から休耕田への移行の時期で、ヒバリの年間出現個体数は六十~七十羽でしたが、一九七九年は百八十羽が記録されました。一九九五年以降は芝川第一調節池掘削工事のために地域内はめまぐるしく環境が変化しましました。ある年は水域が広がり、次の年には草地が広がるという具合でしたが、二〇〇〇年までは年間の記録個体数が二十羽以下でした。二〇〇四年~六年には丈の低い草地が広がったため個体数が多少増加傾向を示しましたが、調節池内では工事のためのダンプカーの往来が激しく、丈の低い芝地のような場所は工事小屋や資材置き場となる事が多くヒバリの生息環境として不向きな時期が多かったことがヒバリの生息数に少なからず影響を与えたのではないかと思われます。調査の結果から、環境の変化によってヒバリの個体数が増減することが解りました。
ツバメと同じように昔から人々の身近にいて、よく知られていると思われたヒバリですが、今の子供達の間ではヒバリの声を知らない子供達が沢山います。「春・麦畑・ヒバリの囀り」といった言葉が童謡の中でのみ生きているのは大変残念な事です。近年、トキやコウノトリを繁殖し野外放鳥して日本の空に復活させようという試みが各地で始まっていますが、そのような中でツバメやヒバリ等のごく当たり前の生物が人と共に生きていける環境作りが進むことは望ましいことと思います。
文献
1 平田利彦・他(二〇〇六)北海道天売島におけるコウテンシの日本初記録『日本鳥学会誌』」五十六(二)一〇二―一〇四
2 国松俊秀(二〇〇九) 古語りの鳥たち/古典と昔話の鳥を読む・『BIRDER』
3 仁部富之助(一九七九)『野の鳥の生態』第三巻・大修館書店
4 植田睦之(二〇〇五)東京におけるヒバリの急激な減少とその原因・『Bird Research』Vol.pp.A1-A8