縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第63号 平成21年5月18日
鳩ヶ谷の生物十
嫌われもの「カワウ」とその仲間
藤波 不二雄
樹上で休息するカワウ 飛翔するカワウ
カワウ(川鵜)はペリカン目・ウ科に分類される鳥類の一種で、この仲間は世界で四十三種類が記録されています。カワウの名前の由来は文字通り「川の鵜」ですが、不忍池や東京湾岸の海岸などでも普通に生息しています。カワウは鵜の仲間では最も分布が広くグリーンランドやアイスランドあるいはユーラシア大陸からアフリカ大陸、オーストラリア大陸など広い範囲に分布しています。日本では本州と九州に繁殖地があり、留鳥として生息し青森県では夏鳥として繁殖しています。鵜は「水に浮く」あるいは鵜の羽で産屋を葺いた神話から「産む」に由来するなどと言われています。安産の神様と言われる「うがやふきあえずのみこと」は、屋根をふきおわらないうちにお産
が終わったのでこの名前があり、宮崎県の鵜戸神宮がその場所とされています。奈良時代からカワウ・ウミウを区別せず「ウ」「シマツトリ」等の名で知られていたようです。江戸時代中期になって区別して「カハツ」、後期になり「カハウ」とも呼ぶようになり、色が黒いところから「カラスウ」「カワガラス」と呼ぶところもあるようです。一般的に鵜と呼ばれている鳥は、千葉県や茨城県では「ウガラス」、岐阜県では「うかか」、伊豆大島では「うのとり」などの方言があります。野口雨情作詞、中山晋平作曲の「ハブの港」で歌われている「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る」の鵜の鳥はウミウ「海の鵜」でカワウによく似ています。俳句では季語として使われているようですが、鵜という鳥そのものよりも、「鵜飼い」として季語に使われることの方が多いようです。
暁やうかごにねむる鵜のつかれ
正岡子規
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな
松尾芭蕉
ひいき鵜は又からみで浮みけり
小林一茶
叱られて又疲れ鵜の入りにけり
小林一茶
嘴少し開け炎天を鵜が過ぐる
山口誓子
その他に、よく知られている歌として、山部赤人の和歌に「玉藻刈る 辛荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや家思はざらむ」があります。「辛荷の島」とは兵庫県の相生市相生の金ヶ崎の沖合いに浮ぶ三つの島を「辛荷(唐荷)の島」と呼んでいます。また、玉藻とは海草のアマモ、あるいは汽水藻のイトモあるいはエビモ等を指します。従ってこの歌で詠まれている鵜がカワウなのかウミウなのかはっきりしたことは解りませんが、沖合の島で玉藻刈ると言うところからウミウの可能性があります。
カワウの特徴
全長八十~九十㌢、翼開長百三十~百五十㌢の大きさの鳥で、ウミウと大変よく似ていますがやや小形で、カラスのように全体に黒い羽色をしています。繁殖期になると生殖羽になり、腰の両側に三角形状の大きな白斑が現れ、頭から上頸部が白くなります。幼鳥は胸が白っぽいことで識別できます。水掻きのついた足を使い、尾を軸にして水中を素早く泳ぎます。餌となるのは殆どが魚類で、捕獲する際には時に一分以上、水深十㍍近くまで潜水することもあるようです。近縁種のウミウも同様に巧みな捕食者で、鵜飼いにも利用されるのはよく知られています。カワウ一羽が一日に食べる魚の量は約五百グラムと言われ、現在日本国内で六万羽以上に増えたと推測されていますので、相当な数の魚類がカワウによって消費されていることになります。
カワウは群れで塒をとる場所をいくつか持っており、ここで休息と睡眠をとり、夜明けには採餌のために餌場に向かいます。この塒の内からコロニーを水辺に形成し、繁殖を行います。この群れは数十羽から数千羽にまで及ぶこともあり、季節を問わず冬でも繁殖できますが、営巣活動は春先と秋に特に活発になります。一夫一妻で、枯れ枝などを利用して樹上、稀には鉄塔などにも巣を作り、卵は約一ヶ月程度で孵化し、四十~五十日で巣立ちます。
かつては伝統漁法の担い手
カワウは、川岸を歩いて魚を取る徒鵜(かちう)や鵜飼いなどの伝統漁法の担い手であり、古くから国内各地にいたようです。特に鵜飼いは、古くはエジプトや南米のペルーなどで行われていたと言われています。中国で鵜飼いに使用される鵜の種類はカワウを使用していますが、日本ではウミウを使用しています。鵜飼いで有名な長良川の鵜は、茨城県高萩市の伊師浜海岸で生け捕りにしたウミウを使用します。日本では漁のための鵜は成鳥を捕獲して訓練しますが、中国では完全に家禽化されています。カワウの家禽化は肉や卵の生産のための家禽化と異なり、カワウの高度な捕食習性を利用して魚を捕らえるためのもので家禽化としては特殊な例です。鵜飼いの際は、魚を飲み込めないように鵜の喉に輪を装着するのは日本も中国も同じですが、中国では日本のように鵜を綱で繋がず、魚を捕らえた鵜は自発的に鵜匠の元に戻って来るように訓練されています。戻ってきた鵜の嘴をつまんで口を開け、獲物を吐き出させます。日本では鵜飼いは様式化して残ったため捕る魚はほぼアユのみですが、中国では一般漁法として存続しているため、鵜が食べることの出来る大きさの色々な種類の魚を捕ります。鵜飼いは大和時代に中国から伝来したものと言われていますが、「神武天皇記」によると、当時は「うがいのとも」と呼ばれる特別職が設けられていたようです。古事記では鵜飼のことを歌った歌謡「今、天(あめ)より八咫烏(やたからす)を遣はさむ。かれ、その八咫烏引道(みちび)きてむ。その立たむ後(あと)より幸行(いでま)すべし」かれ、その教へ覚しのまにまに、その八咫烏の後より幸行せば、吉野河(よしのがは)の河尻(かはしり)に到りましし時に、筌(やな)を作(ふ)せて魚(うを)取れる人あり。しかして、天つ神の御子、「なは誰(たれ)ぞ」と問(と)ひたまへば、「あは国つ神、名は贄持之子(ひへもつのこ)といふ」と答へ白しき。こは阿陀(あだ)の鵜養(うかひ)が祖(おや)ぞ。」があります。その後、平安時代になって現在のような日本式の鵜飼が発達したと言われています。
市内の記録
鳩ヶ谷市内のカワウに関しては、湿地の開発と「小渕邑濫觴記」に記載されている小渕の地名伝説で「東北西の三方は淇河(沼の意)の流れの淵にして数万の鵜鳥徘徊し(中略)自然に鵜淵と字名あり」と鵜鳥の群れ集う所だから鵜淵であり、それが小渕に転化したものとしている。このように小渕村は村を囲む三方が沼地であり(後略)」の記述から江戸時代には多くの鵜が生息していたことが伺われます。ただ、ここに記載されているように数万羽の鵜がこの当時に生息していたかどうかの真偽は別として、この鵜鳥はカワウを示すものと考えられます。この時代は、旧入間川の流路跡に創出された多くの沼地が存在していたことからカワウを初め、多くのガン・カモ類を含む水鳥類の生息地であったものと思われます。近年のカワウに関する記録は、一九八九年三月に纏められた「鳩ヶ谷市緑のマスタープラン策定調査報告書」では通過鳥として記録があります。一九六〇年代から一九八五年まで市内で野鳥の調査を行っていた筆者の記録ではカワウの記録は全くありませんでしたが、一九九五年四月二十五日、二〇〇〇年九月二十七日、二〇〇一年四月三日、二〇〇二年五月二十日に芝川の境橋付近、一九九七年五月九日に本町二丁目バス停上空通過、二十七日に鳩ヶ谷大橋付近の芝川、一九九九年二月二十一日
桜町六丁目上空を通過、二〇〇五年一月二十九日昭和橋付近上空飛翔、二月九日(百羽以上の群れ)天神橋付近の芝川、二月二十六日に里小学校裏の見沼代用水、三月一日本町四丁目、三月十日桜町六丁目上空飛翔、二〇〇六年八月二十八日毛長川、十月十一日天神橋付近芝川、二〇〇七年一月十三日、三月二十
一日、十一月二日(二羽)天神橋付近の芝川、二〇〇八年三月二十九日、四月二十二日に本町四丁目の見沼代用水、等の観察記録などがありますが、実際には二〇〇〇年以降、新芝川および旧芝川でほぼ毎日のように上流と下流を行き来していますので一年中見ることが出来ます。市内でカワウの記録が増加した理由としては、見沼田んぼの芝川沿いに大きな調節池が幾つも出来て、荒川から芝川伝いに多くの群れが毎日行き来していることにより、必然的に鳩ヶ谷市を通過することから記録が増加しています。現在、見沼通船堀より上流のJR武蔵野線北側に広がる見沼田んぼに九〇㌶におよぶ芝川第一調節池の工事が三十年の歳月をかけて行われていますが、造成中の調節池の面積が年々拡大することによりカワウの飛来数も増加しています。一九九五年前後のカワウの飛来数は五羽以下でしたが、一九九八年以降は十羽から二十羽の間で推移し、二〇〇七年十二月初旬には三十羽から五十羽、十二月末には百三十六羽が飛来しました。二〇〇八年度は池の面積は広がりましたが全体的に草丈が伸びた影響で開水面が少なく飛来数が減少しました。その代わりに新芝川や旧芝川で採餌する個体数が増加しています。カワウに限らず水鳥類の個体数の増減は季節や生息環境によって大きく左右されます。
時々、市内で雁の群を見たと言う話を聞きますが、おそらく雁ではなくカワウであることが多いものと思われます。カワウもガン(雁)類のように、群れになって編隊飛行をすることが多く、「竿になり、鈎になり」飛んでいるところを見ると雁が飛んでいるように思う人もいるようです。前述した芝川第一調節池では、近年になって毎年十月四日から六日頃に数羽のマガンが確認されるようになりました。しかし、ガン類を鳩ヶ谷市や川口市などの市街地で見かけることは無いとは言えませんが、可能性は非常に少ないものと思われます。芝川で観察していると、数十羽のカワウの群が水面に着水すると同時に、一斉に羽ばたいて魚を追っている姿をよく見かけます。この様な場所には必ず魚群が集まっており、カワウは魚群を浅瀬へ追い込んで魚を捕ります。時には、そのようなカワウの追い込み猟を利用して、コサギやアオサギ等が待ちかまえて魚を捕ることもあります。カワウは捕った魚を文字通り「鵜呑み」にします。しかし、大きすぎる魚は、嘴の先で持ち替えて頭の方からすっぽり飲み込みますが、かなり苦しむような感じで飲み込んでいるのを見かけます。そのような時には、飲み込んだ後も喉のあたりがかなり大きく膨らんで見えます。折角捕らえた魚でも嘴よりも上に上げることのできない大きな魚は放棄しています。
分布拡大による問題
カワウの糞には多量のリン酸が含まれており、富栄養状態となったコロニーの樹木を枯死させ、採餌場所の水質の悪化を招きます。琵琶湖の竹生島などでは、カワウの糞害による環境破
沢山のカワウの群れ
壊が大きな問題となっています。愛知県知多郡美浜町の鵜の山では江戸時代からカワウの糞が農業肥料用に重用され、各種の入札の制度を設けコロニー内を整備し、禁漁区として積極的に保護され町の財源を潤したといわれています。その代価で小学校が建設されたこともあり、現在でもカワウは町のシンボルになっています。繁殖地の「鵜の山」は一九三四年に国の天然記念物に指定されています。
カワウの生息状況に関しては、多くの論文が報告されています。江戸時代には、北海道を除く各地で営巣を見ることができたようですが、明治以降から戦前にかけて無秩序な狩猟などによって急減しました。関東地方では、千葉県蘇我郡大巌寺に「鵜の森」と呼ばれた関東最大のコロニーがありました。寺が創建された一五五一年からカワウが生息しており、個体数は最大数万羽と言われていましたが、一九五〇年代には数百羽になり、一九七一年には消失しました。全国的に工場や家庭の雑排水・農薬あるいは化学肥料などの多用による河川や湖沼などの水質の悪化、さらに河川改修に伴う護岸整備などによる生息環境の減少等により、一時生息数が大幅に減少しました。一九七〇年代以降、公害規制による河川水質の向上で餌となる魚が増え、個体数は飛躍的に増加しました。一九七一年には全国三ヶ所のコロニーで三千羽以下の個体数になったと言われています。しかし、天然記念物に指定され保護されるようになってからは次第に分布を拡大していったようです。不忍池や彩湖などでは人工島を作り、カワウの営巣場所を提供してきました。このような人為的な配慮や農薬の減少・河川等の水質の浄化などによるカワウの生活環境が改善されたことなどが要因となり各地で増加してきました。近年では河川の上流にも進出し、漁協などによって人為的に放流されたアユやアマゴなどの漁業被害も深刻です。二〇〇七年三月、環境省は鳥獣保護法に基づく狩猟対象にする方針を決めました。十一月の猟期からの狩猟鳥獣の追加として、
(1)カワウを狩猟鳥獣に追加
(2)ウズラを狩猟鳥獣の指定を解除せずに五年間の全面
禁猟にする
(3)ニホンジカのメスの捕獲禁止の解除
等が決まりました。カワウの被害は全国で七十億円を超すとされハンターに狩猟されて減ることを期待しているようです。狩猟可能な期間と地域であれば特別な許可なしに捕獲できることになりました。カワウの基本的な習性と環境に対する人間の認識の変化によって、大型の水鳥の増減が左右されています。カワウは、河川や池沼などのような湿地生態系の高次消費者であり、人間との関わりの深い集団繁殖習性をもった鳥類です。カワウの分布や個体数の変動は、カワウと人とのかかわりの変化や湿地生態系への大きな変化をもたらしています。
参考文献
1 福田道雄・成末雅恵・加藤七枝(二〇〇二)日本におけるカワウの生息状況の変遷・『日本鳥学会誌』51:4-11
2 加藤信明(二〇〇八) 「小淵邑濫觴記」『郷土はとがやの歴史』和泉屋p.31-38
3 小渕甚蔵(一九九九)「小淵邑濫觴記」私考1・郷土はとがや・鳩ヶ谷郷土史会会報p.7-11
4 読売新聞社(一九六六)『鳥の歳時記』