縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第61号 平成20年5月18日
一通の手紙とその時代
鳥類学者 小林桂助先生との文通
藤波 不二雄
原色日本鳥類図鑑(保育社)は四十年以上前の野鳥観察者の間で俗に「コバケイ図鑑」と呼ばれ、愛用されていました。その頃は現在のように精密でコンパクトな野外識別図鑑のようなものは出版されていませんでした。また、標本を図示した図鑑が主流で、重量のある大図鑑ばかりで実用的ではありませんでした。その中で野外へ持参できる図鑑として「コバケイ図鑑」は一九五六年に出版以降、版を重ね十一万部以上が愛用されています。昭和四十年代は「鳥か人か」と言われるほど自然保護運動が盛んになり始めた時代であり、特に、千葉県新浜(浦安付近)御猟場を中心として地域の埋め立て問題が起きた頃は、鳥を観察するための必携の図鑑でした。
筆者がコバケイ図鑑を入手した当時は千九百円、その当時の一般的なサラリーマンの給料が一万五千円でした。
「コバケイ図鑑」の著者である小林桂助先生(以下、先生)との出会いは一九八五年十二月、兵庫野鳥の会の機関誌である「鳥と自然」誌に「鳩ヶ谷市におけるツバメの営巣について」と題して投稿をしたところ、思いがけず会長である小林先生から封書が届きました。その手紙は、長年に亘るツバメの営巣に関する観察記録および営巣数と環境の変化を捉えた報告は大変貴重であり、会報に掲載させて頂きますとの丁重な内容でした。さらに、今後とも短報・論文にかかわらず投稿してほしいとの言葉が添えられていました。
先生とは一面識もありませんでしたが、その一通の手紙が縁となり、その後永眠されるまでの十五年に亘って、ハガキや封書での文通が続き、投稿論文などの添削やアドバイスを受けることが出来ました。先生は一流の鳥類学者であると共に在野の研究者であり、鳥学の研究は専門家だけが行う学問ではなく「生物に関心を持つ若い人たちは、社会人として異なった道を辿っても折角芽生えた生物学への関心を途中で放棄することなく、本業と両立されることを望んでやまない」との持論を持っており、所蔵の本剥製や仮剥製などの鳥の写真をお送り頂き、投稿した野鳥について「識別のやりとり」をしたことも良い想い出となりました。その間、機関誌への投稿は一九八六年~一九九九年までの十四年の間に二十五編を掲載する事が出来ました。さらに十編は小林先生に添削指導を頂き掲載予定でしたが、先生の急逝により、会そのものが解散することになりました。兵庫野鳥の会は、(財)日本野鳥の会と日本鳥学会の中庸的な会でしたが、先生が在野の研究者を育てたいとの方針を貫いていました。
筆者は関西に十年間在住していたにも係わらず一度もお会いすることが出来なかったのが心残りですが、一通の手紙を通して良い勉強をさせて頂きました。
先生は、二〇〇〇年一月十日に九十三歳(明治四十一年生まれ)で永眠されましたが、戦前から日本の代表的な鳥類研究者の一人として国内外に知られていました。戦前の日本鳥学会は、一九一二年に東京帝国大学教授である飯島魁の主唱のもと、高司信輔(公爵)、黒田長禮(侯爵)、松平頼孝(子爵)等によって創設され、山階芳麿(侯爵)、蜂須賀正氏(侯爵)、清棲幸保(伯爵)などがいました。従って、鳥の研究者や標本収集を趣味とする華族達を中心とした裕福な人々の集まりでした。なお、この時代の華族出身でない鳥類研究者としては内田清之助や(財)日本野鳥の会の創始者である中西悟堂など少数でした。
先生(本名は小林賢三、二十五歳の時に襲名で三代目小林桂助となる)は、二代目桂助氏から、毛皮・薄荷・樟脳など天然物の輸入の家業と鳥類研究の趣味の両方を受け継ぎました。しかし、一九二三年の関東大震災により、二代目が収集した鳥類の標本は消失し、横浜から神戸市へ移転しました。そして、鳥類研究を七十年以上に亘って行ってきました。鳥の研究が本業か趣味か定かでなかった華族出身の人たちと違って、在野のアマチュア研究者でした。戦後、洋館はアメリカ軍に接収されることが多かったが、小林家は戦前に出版した、英語版の Eggs of Japanese Birds が取り持つ縁で米軍大佐が配慮し、接収を免れました。そこには我孫子市にある山階鳥類研究所に次ぐ、日本有数の鳥や卵などの標本を収集していました。現在、残された標本類(鳥類の仮剥製千七百種類一万二千点、鳥卵二千八百五十巣分、鳥の巣約四百八十点)は全て、兵庫県三田市にある、兵庫県立人と自然の博物館に寄贈されました。
ちなみに、群馬県伊勢崎市曲輪町にある「旧時報鐘楼(鐘突き堂)」は一九一五年(大正四年)、横浜の貿易商であった初代小林桂助氏が出費し、建立寄贈されたものです。外壁の赤煉瓦やルネサンス風の窓やドーム形屋根が大正ロマンを漂わせる洋風文化財となっています。塔は、朝と夕方の六時に、鐘の音で時を告げていましたが、戦時中に金属回収により鐘が供出され音を失いました。そして、塔屋部分は戦災で消失し、戦後に市制五十年を記念して創建当時の姿に復元されました。二十世紀最後の年、市制施行六十年を記念して、音の代わりにライトが点灯されました。初代桂助氏は高崎藩士板垣家の出身で、伊勢崎の薬種商小林吾平の養子となり、生薬を業としていました。