縦書き by 涅槃 『鳩ヶ谷博物誌』へ 『郷土はとがや』 第59号 平成19年5月18日
氷川神社参道のイチョウの木と第二工区について
藤波不二雄
昨年、九月の短歌会セミナーにおいて、氷川神社のイチョウの乳房が話題になったことからイチョウについて調べてみました。氷川神社参道のイチョウ並木には十五本が植栽されており銀杏がなる雌の木が一本ありますが、残りは雄の木でした。そして、乳房が垂れ下がっている木は太く大きな木ほど立派な乳房が垂れていました。この乳房は気根の一種と言われています。
イチョウの木を見ている内に何故イチョウという名が付いたのか気になりました。正確なところは解りませんが、イチョウの語源にはいくつか説があります。①中国名の一つである鴨脚樹の鴨脚のヤーチャオがイチョウに変化。②銀杏の唐音「インキョウ」がイチョウに変化③葉が一枚であるところからイチョウ、等の語源があるようですが、現在は鴨脚樹の語源からイチョウとしている辞書が多いようです。なお、鴨脚樹とは葉の形がカモ類のヒレの付いた脚(水掻き)の形に似ているところからつけられています。また、イチョウは平安時代に日本に入ってきたものとされており、古いものでも約千年くらいの樹齢であると想像されます。
イチョウは落葉樹で防火樹としても知られ、長寿であり成長すると巨木になります。そのため、各地に巨木イチョウが残っており、巨樹となっているもののほとんどは雄株で、銀杏に養分を消費されてしまう雌株は巨樹にはなりにくいものと思われます。雄株の大木では幹や枝から垂れ下がった円錐形の突起を生じる場合があり、乳イチョウなどと呼ばれています。広葉樹のように思われますが針葉樹の仲間です。葉は原始的な平行脈をもち、二又分枝し秋には黄葉し、落葉します。
イチョウは色づいた時の美しさから、街路樹(銀杏並木)として、植えられているところも多く、明治神宮外苑や大阪御堂筋の並木道は有名です。雌雄異株であるため、雌木と雄木があり、実(銀杏)は雌木になります。また、イチョウは開花しないと雄木か雌木かがわからないとよく言われますが、イチョウの雌雄は、大きく成長したものでは樹形で容易に判別できます。
雌株は果実(銀杏)の重みで枝が垂れ下がる傾向があり、横に枝を伸ばした樹形となりやすく、花粉を風に乗せて遠方に飛ばす雄株はすらりと枝を上方に伸ばしています。
氷川神社参道のイチョウ並木の由来
氷川神社参道のイチョウの木はいつ頃植えられたのでしょうか、郷土資料館に保管されている資料を探してみましたが、残念ながらイチョウの木に関する記載はありませんでした。資料館の島村邦男氏による聞き取り調査の記録によると、昭和十年時点では参道の並木はなかったようです。
鳩ヶ谷市議会のホームページに掲載されている平成十六年三月定例議会の資料には、昼間英司議員による第二工区(鳩ヶ谷駅東口駅前通り線)に関する発言記録がありました。その中で、氷川参道のイチョウの起源について詳しく記載されていました。それによると、
「(抜粋)このイチョウ並木がいつごろ植えられたのかなと、私もこのイチョウ並木について調べてみました。昭和十年ごろにお嫁に来た方に聞いたら、そのころは植わってなかったと。昭和十四年に鳩ヶ谷小学校へ入学した人にも、植わってなかったんじゃないかなということでございます。また、十八年ごろにお子さんの生まれた方は、桜とイチョウが交互に植わっていたというような話も聞きました。いろいろ考えてみると、やはり昭和十四、十五年から二十年の間に植えられたのかなと、このように考えられます。
昭和十五年は皇紀二六〇〇年、やはり神社と皇室のつながりは大変強いわけでありますので、そのころ植えられたのではないかなと、このように思っておりますが、いわゆる太平洋戦争が始まったころであります。」
正確に記載された文献がないために想像の域を出ませんが、イチョウが植栽されたのは戦前の事になるようです。
第二工区(鳩ヶ谷駅東口駅前通り線の都市計画)について
平成十八年一月に川口・鳩ヶ谷地域 都市・居住環境整備重点地域 特定地区(鳩ヶ谷駅周辺地区)整備計画(案) が縦覧されました。そして、十一月には埼玉県より鳩ヶ谷市計画都市再開発方針(案)が縦覧され、市民のパブリックコメント(意見)が提出されました。
この二件の縦覧文書にはいずれも第二工区(東口駅前通り線)の計画が掲載されています。
鳩ヶ谷市における開発事業に係わる環境配慮制度によれば、五〇〇㍍以上の長さで、十二㍍以上の幅の道路でなければ、大規模開発に当たらず環境アセスメントも実施されず、環境審議会には決定事項の報告のみとなります。また、本事業の推進は本町商店街や行政を中心とした考え方による計画決定事業であり、市民不在の事業です。
市議会に提出された本事業に係わる費用便益比を見ると一、一八で、社会的に実施する価値を持つと判断されています。しかし、机上の計算だけで評価することには問題があります。
当該路線の整備による期待効果として以下の項目を列挙しています。
1.まちづくりに対する支援効果 2.防災機能の向上効果 3.鉄道駅へのアクセス向上効果およびそれに伴う鉄道利用効果
道路が拡張されれば消防車や救急車の移動は多少促進される可能性はありますが、既存の公園や駐車場を潰し、氷川神社のイチョウ並木の参道(阪神大震災で明らかな如く大きな木があることで防火機能がある)などを潰してまで防災機能効果がそれほど大きなものとは考えにくい。また、鳩ヶ谷駅には大規模駐車場はなく、四百㍍弱の道路を整備して車が増加しても駐車スペースはありません。さらに路上駐車が禁止されている商店街に駐車をすることも出来ません。また鉄道利用者は殆どが歩行者か自転車であることを考えると、むしろ自転車や歩行者の為の歩道整備をすることの方が効果は期待できます。以上に掲げられた三点について費用便益効果事業の妥当性があるとはとても考えられません。
前述した「開発事業に係わる環境配慮制度」では、敷地内の保存樹木は極力残すと共に、特に良好な緑やランドマークとなる大木など、地域の自然環境の特徴となるものは極力その場で活用するよう配慮する事となっています。しかし今までの行政の開発方針からすると、この考え方も机上の空論となるでしょう。道路開発が必要な場合は、現状の道路を活かした方法もあるはずです。
市議会の議事録によれば、第二工区の道路を整備してもバスや大型車は通行させないと言っていますが、上下二車線八㍍、歩道両側十二㍍道路は旧一二二号線よりも幅が広くなり、大型車が通行しやすい道路となるため、全く矛盾しています。さらに、計画道路のすぐ傍には保育所と歴史ある鳩ヶ谷小学校があり、道路は正門の前を通過することになり、通学路としての安全性が低下する可能性があります。
もし道路を整備するのであれば、例えば
①既存の参道を中心に歩行者や自転車が安全に通行可能な道路として整備する。
②既存の参道を活かして、自動車を通行させるのであれば
一方通行方式とし、歩道を幅広くして、緑道を整備する。
③対面交通可能な道路とするのであれば、既存の参道を挟んで道路と歩道を整備する。
この様なことを考えた場合、既存のイチョウ並木を保存すると共に、歩道には新たにイチョウの若木や潜在自然植生を植栽して緑地帯を造り、道路と歩道の段差をなくして歩道と車道の間に自転車道を整備し、三者を区分するために色分けし、全ての道路を雨水浸透性のある道路に整備する。既存のふれあい公園と一体化したふれあい道路となるように整備し、休日には車道を閉鎖し、歩行者天国にする。と言うようなことが考えられます。この様な整備をすることにより市の中心部に大きな緑地帯を形成することが可能になります。
鳩ヶ谷市のような狭い面積の土地に、既に第二産業道路が整備され、さらに蕨駅から草加市へ抜ける大規模道路の計画があります。
少子高齢化社会に突入した昨今、自動車優先の道路のみが住民不在の状況で開発されていきます。今後は人に優しい道路を計画するべきではないでしょうか。鳩ヶ谷市の環境基本計画の数値目標が平成一八年三月に提出されました。しかし、確実に数値目標が設定されているのは道路開発事業という公共事業のみであり、街路樹の植栽等の数値目標はありません。また、公園、緑地、ビオトープなど、俗に言う緑の項目に関しての数値目標の設定は皆無です。
鳩ヶ谷市には予算がありません、しかし道路開発に係わる予算は県や国から何とか工面して工事が出来る仕組みになっています。
鳩ヶ谷駅周辺の再開発は高層ビルの林立ならびに大型ゲームセンンターなどのような一日中大容量の電気エネルギーを使用するような形のものが増加し、おそらく東側も同様の開発が進むことでしょう。行政はこれが街の発展と称しています。第二産業道路が出来ても殆ど通過のみで市に恩恵は望めません。なぜならば、大型店舗が近隣市町村に増加し、鳩ヶ谷市内の商店で買い物をする人は少なくなります。コンクリートの建物ばかりが立ち並ぶ町では、人間は安らかに生活をすることは出来ません。そこに広い意味での「緑」の存在がクローズアップされてきます。身近なところに多くの緑地があり、四季の潤いを感じることは、いかに生活に潤いを与えてくれることでしょう。その土地の気候や歴史と深く結びついた伝統的な景観が保全されることは、その地域に住むことの誇りにもつながってきます。
氷川神社のイチョウ並木は昭和初期に植栽されたものであろうと推測されます。しかし、それでは歴史的なものではなく、文化的なものでもないという声も聞かれますが、「歴史とは今あるものが変わり行くこと」であり、少なくとも七〇年近くの間、鳩ヶ谷の変遷と歴史を見つめてきたイチョウ並木の参道は、古くは「鎌倉道」と呼ばれ、江戸期に入り「鎌倉街道」と名を改め現在に至っています。
本来ならば鳩ヶ谷市等の県南市町村は農業を活かした街作りをすべきであったと思います。全てが東京砂漠を絵に描いたような街造りとなっており、人の心が見えなくなっていきます。地下エネルギー等の枯渇が叫ばれている現在、将来を考えた街造りの計画を推進してほしいと思います。